名古屋市役所の本庁舎の向かいのビルから本庁舎を眺めると、頂部に仏舎利塔のような屋根があるのを見つけてました。
洋館建築に和風の屋根をかけた「帝冠様式」というデザインであるそうです。
「和洋折衷」という言葉が頭に思い浮かびましたが、同時に「和衷共済」という言葉を思い出しました。
「和衷」とは心の底から一つに合わせること。「共済」の本来の意味は、心を合わせて協力して物事を行なうことです。
「市民の心が一つになって、協力して暮らしていこう。」というメッセージなのかもしれません。
名古屋市役所の本庁舎の向かいのビルから本庁舎を眺めると、頂部に仏舎利塔のような屋根があるのを見つけてました。
洋館建築に和風の屋根をかけた「帝冠様式」というデザインであるそうです。
「和洋折衷」という言葉が頭に思い浮かびましたが、同時に「和衷共済」という言葉を思い出しました。
「和衷」とは心の底から一つに合わせること。「共済」の本来の意味は、心を合わせて協力して物事を行なうことです。
「市民の心が一つになって、協力して暮らしていこう。」というメッセージなのかもしれません。
愛知県の木曽川沿いのお宅まで、お参りに行きました。
その帰りに、ふと思いついて、岐阜県各務原市の金龍寺というお寺に立ち寄りました。
昭和22年頃に、住職の大叔父が住職をしていたようで、確認したいと思ったからです。
お寺の由来を書いた看板を拝見して、大叔父である「義峰観道」という和尚さんが住職をしていたことが判明しました。
お寺は過去現在未来の三世によって成り立っております。父も母も生まれる前から、多くの因縁があったことを知り、現在の立ち位置を定め、未来へと進めていくことができるのです。
今日の出来事が、今後の活動の礎となることは、間違いないようです。
テレビ番組の「ぶっちゃけ寺」に出演される 大来尚順先生が講義をされることを聞き、名古屋まで行ってきました。「英語でブッダ」という講座を受けさせていただきました。
英語と仏教の教えとは、結びつきにくいイメージです。インドで生まれた仏教の教えが、中国や朝鮮半島を経て日本に伝わりましたが、伝言ゲームのように当初の教えとは異なってくるようです。
インドの言語と近い英語を介して、視点を変えて仏教を学ばせていただきました。
大来先生は浄土真宗のお坊さんですが、臨済宗の故松原泰道師と親しくされたようです。
住職は泰道師の著書を読み、息子さんの故松原哲明師に法話を教わったものですから、大来先生と通ずるところがあります。
同じ仏教の他の宗派の視点から、禅の教えを学ぶことができるとは不思議なご縁です。
鐘楼の修復工事を開始するのですが、うちのお寺の属する「包括宗教法人 臨済宗妙心寺派」への届け出が必要になります。
今日、臨済宗妙心寺派からの承認書が届き、身が引き締まる思いでおります。
ここのところ、宗派を超えた僧侶の集まりに参加することが多くなりましたが、同じ宗派の皆さまのもと、ここまで進んできたとの思いに浸っております。
お寺の庫裡の北側に裏庭があります。
30年ほど前は、鯉が泳ぐほど水が溢れていましたが、枯れ池となっています。
ドウダンツツジの花が咲いて、一面を照らしております。
手入れをしたわけでもないのですが、きれいに咲く姿を見て、六祖慧能禅師の偈頌(漢詩)を思い出しました。
「菩提もと樹なく 明鏡もまた台にあらず 本来無一物 いずれのところにか塵埃を惹かん」というものです。
「本来の菩提心というものは、樹木のように根の張ったものはない。きれいな鏡のような定型の心もない。この世のものは本来形のないものである。ゆえにチリを掃き取るような必要はない。」と解釈しております。
枯れ池という殺風景なところに、強くしなやかに咲く姿と、「本来無一物」と定型なものを否定された詩とを重ね合わせております。
僧侶として、お弔いにいくとき、お経をお読みするなど粛々と儀礼を行なうだけで、ご遺族の心のケアというものは、おざなりにされてしまいます。
大切な人を亡くした悲しみに寄り添い、心のケアをするというグリーフケアというものを、一昨年来学んでおります。
グリーフケアのことを、お寺の新聞に掲載したところ、夭折した同級生のお母さんがその記事を読んでくださり、感想をお寄せくださったこともありました。
この学びというものを、広めていくには多くの人の支えが必要となります。
愛知県春日井市のお寺まで行き、これからのグリーフケアを広めていく活動方針を話し合ってきました。
今後、宗派を超えた多くの和尚さんたちとグリーフケアを広めていき、本来の安心をもたらしていければと考えております。
お寺の屋根には、数え切れないほどの瓦が並べられています。
禅の問答には、瓦にちなんだ因縁話があります。
8世紀の中国の唐の時代に、南嶽懐譲という和尚さまがおられました。
南嶽禅師の多くのお弟子さんのなかに、馬祖道一という坐禅を熱心に行なう修行僧がいました。
南嶽禅師は、馬祖に問いかけます。「君は何のために坐禅をするのか。」
馬祖は、「仏になるためです。」と答えます。
南嶽禅師は、落ちていた瓦を持ってきて、磨き始めます。馬祖は師に何をしているのかと尋ねます。
南嶽禅師は、「瓦を磨いて鏡にしようと考えている。」と答えます。
馬祖は「鏡になどできません。」と答えます。
南嶽禅師は、「では聞く。坐禅をして仏になることができるのか。牛が引いている車が動かなくなったとき、牛を打つのか車を打つのか。」と尋ねます。馬祖は、やっと師の言葉の意味を察することができました。
「坐禅をしている。お経を読んでいる。庭掃除をしている。」など日頃の行ないを継続するうちに、ふっと見えてくるものがあります。何かを得ようとして行なうのではなく、無心に継続することこそが仏道であると説かれたのです。
何かの目標に向けて頑張っていても成果を上げることができないことはよくあります。継続するうちに、ふっと見えてくることがあります。無心の中から仏道を積み重ねることを、南嶽懐譲禅師は説かれたのです。
暖かくなると、ツツジが開花してきます。
ほんの一輪でも咲くと、初夏の訪れを気づくことができます。
4月8日はお釈迦さまのお誕生日です。
クリスマスを祝っても、お釈迦さまのお誕生日をお祝いすることのないもどかしさを、ずっと感じでおりました。
宗派を超えたお坊さんの有志で、名古屋市の繁華街の栄で、お釈迦さまのお誕生日をお祝いして、お花をお送りしようという街宣運動をしました。
仏さまの心を、街行く人にお伝えする種まきができたと考えております。
お寺の玄関の間に、生け花が置かれたところです。
新緑に囲まれて、薫風が漂う初夏を思わせてくれます。
「夏草や君わけゆけば風薫る。」とは正岡子規の俳句です。
病床にいて、外に出ることのなかった子規が、ガラス越しに薫風を感じたことを思い浮かべます。