不立文字

鐘楼の修復工事が始まりました。

一日がかりで、瓦や野地板など屋根の上のものを取り外すことからのスタートです。

すっぽりと消えた頂上から、棟札(むなふだ)が出てきました。

大正時代に建立したときの、棟梁と副棟梁のお名前が書かれていました。

棟上式の日時などの詳細は書かれていませんが、文字にならないところから、100年前の工事にかける熱い思いが伝わってきました。

禅の言葉に、「不立文字」というものがあります。文字による伝達を否定するわけではなく、文字の書かれた背景から先人の心を推し量るということです。

工事に立ち会って、今も昔も多くの皆さまにお世話になって大源寺が成り立っていることを感じました。

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お相手の仏心を拝む。

埼玉県まで行き、傾聴カウンセリングをされる曹洞宗の和尚さんのお話しをお聴きしてきました。

病院や介護施設や震災の被災地の避難所に出向かれて、悲しみの淵におられる方のカウンセリングの現場を知ることができました。

お相手の言い分を否定して、こちらの言い分の押し付けはいけないことです。

法華経というお経に登場する、常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)のように、ひたすらお相手の仏心を拝み続けることが大切であることを教えてくださいました。

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マインドフルネス。

東京の増上寺での、寺社フェス「向源」のスタッフとしてお手伝いさせていただきました。

私は、「お坊さんと話そうブース」を担当させていただきました。

5月5日の1日で、10人ほどのお客さまのお相手をさせていただきました。

皆さまから伝わってくることは、お坊さんに対する期待が高いのです。

人生の中で、一番必要なものは何かと尋ねられます。私は、「とらわれのない心」とお伝えしました。

現代では、瞑想をすることが流行っております。「マインドフルネス」という言葉に象徴されます。

瞑想をして、不思議な法力を得られるわけではありません。とらわれのない純粋な心になって、物事を見つめることができるようになるということです。

「きれいな心の中にこそ、人生を切り拓く智慧がある。」とお話しさせていただきました。

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松樹千年の翠

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本堂の前にある松の木は、昭和の初期の頃から装いは変わらないようです。

鐘楼堂を修復するにあたり、ご近所のお宅に「工事中はご迷惑をおかけします。」とごあいさつに伺いました。

お隣の90歳の男性が、「私の子どもの頃から、大源寺の松の木は変わらないね。」とおっしゃいました。

住職よりもずっと長く、お寺を見ておられる方のお言葉には含蓄があります。

「松樹千年の翠。(しょうじゅ せんねんの みどり)」という禅語があります。常に変わりゆくこの世界において、青々とした松は、過去からの生き証人として、現代そして未来へと心を継承していくという解釈です。

お寺をお預かりしている責任を感じております。

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微風幽松に吹き

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鐘楼修復の工事を開始するにあたり、工事の間の無事安全と、工事後のお寺にご縁のある皆さまに幸が多いことを願い、「造作祈祷」のお勤めをさせていただきました。

風の強い一日でしたが、お勤めの間は弱い吹きになっていました。

ご近所のお寺の庫裡に「微風幽松を吹く。」という禅語の墨蹟がありました。この語の後には、「近く聴けば声愈々好し。」という文言が続きます。

「弱い風が松を吹き抜けるシーンが目の前にある。その音声を近くで聴けば、自分の心が穏やかであることを知ることができる。」という解釈でしょうか。

鐘楼堂は梵鐘の音ばかりでなく、風の音まで聴かせてくれるのです。

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祖母未生以前の

鐘楼修復工事の開始にあたり、足場が組まれました。

高所恐怖症の住職も、恐る恐る足場の階段を登っていきました。

100年にわたる役目を終えることになる瓦に、感謝しております。

工事が安全に進むことを祈願してお経をあげておりますと、ご近所の高齢の男性がご寄付をお持ちくださいました。大変に感謝しております。

住職の父母や祖母が生まれる前からの仏縁に感謝しております。

禅語に「父母未生以前の本来の面目。」というものがあります。このたびの仏縁をあえて言うならば、「祖父母未生以前の本来の面目」というものに支えられているのです。

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雪を担いで、井戸を埋める。

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住職が20年前に掛塔(かとう  入門)した、愛知県犬山市の瑞泉寺の僧堂の入制開講式に行ってきました。

入制開講式とは、僧堂の始業式のことです。

玄々庵  小倉宗俊老大師による、三祖鑑智禅師の「信心銘」という禅の語録の提唱(講座)がありました。

「違順相い争う。是れを心病と為す。玄旨を識らざれば、徒らに念静に労す。円かなること太虚に同じ。欠くることなく、餘ることなし。」のくだりを講義くださいました。

「道が間違っているとか合っているかの葛藤をすることは、心を疲れさせてしまうことである。その道の根本となるものを知らなければならない。道は大空のようにまどかで、足りないことも残ることもない。」という解釈をしております。

老大師は、「その道の根本を知るには、ただ無駄骨と思えるようなことの繰り返しが必要である。「雪を担いで井戸を埋める。」というたとえのように、無駄に思えることから見えてくるものがある。自分の経験したことからでなければ、道の根本をたどることはできない。」とご教示くださいました。

 

住職が20年前に掛塔したとき、提唱の時間は、不謹慎にも居眠りばかりしておりました。老大師の教示されることの意味もわからずにおりました。20年の間、パンクしたタイヤに空気を入れるような、無駄骨とも思えることの繰り返しにより、やっとのこと「円かなることは、大空のようである。」という解釈ができるところになりました。

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