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臨済宗妙心寺派の前の管長の河野太通老師の「十牛図」の講話を聴聞してきました。
第8番目の「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」の章を噛み砕いて説明してくださいました。
牛に例えられた迷いの心を、飼い慣らしコントロールすることができるようになって、これで充分であると慢心が起きると、再び迷いの世界へと戻ってしまう。
「牛を飼い慣らすことができるようになったことも、忘れてしまいなさい。」という教えです。

老師のお話しをお聴きして、この何年の間、視野を広げようと広範囲にわたり飛びまわっていたことと重ね合わせておりました。これまでの狭い世界からの脱却するきっかけにはなりました。
これで充分と満足することなく、違和感なく実践することがなければ、元の迷いに戻ってしまいます。

他人に認められることを願って実践するうちは、我欲があってまだまだ不充分であるようです。帰り道、栄の繁華街を歩いていて、「LINEの既読スルーは許せん。」とか「Facebookのいいね!がない。」などという街角の声を、自分の心の声のように思っておりました。

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防災訓練

町内会の防災訓練がありました。
災害はいつ起きるかわかりません。火災や大地震ばかりでなく、水害も忘れた頃にやってきます。消防署や自衛隊の隊員が駆けつける前の初期の対応が必要となります。
昭和51年の9月12日に、豪雨により長良川の堤防が決壊して大垣市近辺が大洪水になったことを、ご高齢の参加者が振り返っておられました。

日頃からの訓練ばかりでなく、先人からの継承や良好な地域関係であることが必要であるようです。

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そばの花

うちのお寺の庭の片隅に、そばの花が咲いています。
「蕎麦の花」は秋の季語であるようです。誰よりも早く秋を知らせてくれます。

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雨降って地固まる。

早朝の鐘楼からのワンショットです。
一昨日の午前中は、雷雨があり停電するほどのアクシデントがありました。
何もなかったかのような、静かな風景です。

「雨降って地固まる。」と自然の摂理を感じております。

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物の見方の尺度を替える。

会社勤めをされる方から頂いた講演会でのレジュメです。
曹洞宗の尼僧さんの指導をされる青山俊董老師が、人生の折り返し地点を迎える45歳の職員を対象にした研修会で講師をされて、「いいお話しを聴くことができた。」と喜んでおられました。

資料から拝察するに、折り返し地点を通過するにあたり、これまでの物の見方の尺度を替えていこうと説かれたようです。「これまでの苦しみを、今後の生きる力にしていこう。」というお話しは、ぐっとくるものがあります。

全体的に高尚なお話しです。これらの内容を自分の言葉でお伝えすることができるのは、どれほど先のことになるのでしょうか。
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「受け手目線」は簡単なようで難しい。

伝道掲示板のポスターを貼り変えたところです。難しい言葉を使う傾向があるのですが、以前に総代を勤めてくださった70代の男性が、「オッさん。これは難しいぞ。」とご指摘をくださいます。

受け手の目線でお伝えするのは、簡単なようで難しいものです。モデル読者を設定して、その方がうなずくように想定して、「大源寺だより」やブログの発信をしております。

継続することで、受け手とのキャッチボールをしていくことができるのです。

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日日是れ好日。

街を歩いていると、「桑海さん」と呼び止められます。親しくしている真宗高田派の説教師さんでした。一昔前では、街角でお声をかけていただくことはありませんでした。

臨済宗妙心寺派の伝道月刊誌に、うちのお寺の新聞「大源寺だより」を創刊するにあたりお世話になった杉本恭子先生のエッセイがありました。

「お坊さんになってよかったこと。」という問いがありました。よかったと言えば、「多くの皆さまとのご縁をもとに、自分の信念というものを磨いていくことができること。」という回答を思い浮かべました。
毎日の出会いの刺激があるから、「日日これ好日」と楽しむことができると感じております。

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祥雲

近所のお寺の施餓鬼会にお参りさせていただきました。
控室の床の間に掛けられていた墨蹟は、臨済宗南禅寺派の管長の中村文峰老師が書かれたものと思います。
「祥雲 寿山を繞く(しまく)」とお読みするのでしょうか。晴れの空で、白い雲が山を包み込むという解釈かなと思います。
隣に座る和尚さんと、繞はどう読むのかと話しておりました。周りを堤で囲む低地を囲繞地ということから「囲む。」ということではとの結論になりました。

住職の修行道場の先輩の和尚さんが住職をされるお寺に、祥雲寺というお寺があります。もう一人の先輩のお寺が曹源寺と言います。曹源とは湧き出る水の源のことを言います。祥雲や曹源というお寺の由来が禅語にあることを、今になって気づいております。

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お寺が消える。

お布施の金額を定額化するなど、賛否両論のお寺の取り組みをされる、埼玉県のお寺のご住職の著書を読んでおりました。長い僧侶人生に基づく検証には共感するところが多いものです。

3年ほど前から、宗派を超えたお坊さんの集まりに参加して、お寺のあり方を模索しておりました。一概にお寺は住職と檀家さんによって構成されますが、その背景図は全国各所で多種多様です。
うちのお寺の地方では、農地解放によって、お寺の経済基盤が弱体化して、住職が教員や公務員を勤めることが当然のことのようでした。「オレは修行に行きたかったけど、お寺を守るために教員に就職した。」と懐古される和尚さんもおられます。
檀家さんのほうでは、戦前は大地主でお寺に多大な寄進をされたお宅でも、いまは年金収入でつないでいる世帯が多いのです。
住職の収入も檀家さんの家計も低下するのですから、これまでの背景図では到底お寺を維持できません。

お寺を維持するにあたって、多種多様の意見があります。古来から綿々と受け継がれてきた教えを、継承していくための配管が詰まっているような状態と捉えております。緻密な検証といろんな工法があることを知り、どの手段で大手術をするのか考える時であると考えております。

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一隅を照らす光明

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本堂前の芝生が伸びてきたので、夕暮れ時から芝刈りをしておりました。
ご近所迷惑にならないうちに終わろうとしたところで、一隅を照らすように外灯が点きました。
手間のかかる無駄骨とも思えることの繰り返しから、新たな光明が見えることもあるのです。

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