寺院運営セミナー

京仏具の老舗である小堀さんと、寺院デザインさんが共同開催される「寺院運営セミナー」に参加してきました。今日の学びを大まかに言うと、仏教のおおもととなる教義と、地域や各家庭での弔いの習俗とは、必ずしも一致するものではないのです。私の経験で言えば、お盆参りに行くとき、地域や各家庭によって、お飾りが異なるのですが、模範例を押し付けることはできません。
これまでの流れを尊重しつつ、宗派の教義との調和を図っていくことが大切です。
これまでのお寺と檀家との関係性の変化のことへの問題提起がありました。「供養はしたいのだが、お寺との関係は重い。」という意見をいかに吸い上げていくかが大切なところです。

お寺なり僧侶は、広く世間に安心をもたらすことが重要な役割です。昨日 、河野太通老師にお聴きした「真っ白な心」、あるいは故松原哲明和尚さまにお聴きした「無生心」へ導いていくための、道路舗装の時期に来ているのだと思い、会場を後にしました。

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真っ白な心

金風の候というのは、秋風のことをいうようですが、蒸し暑い日が続きます。
昨日、河野太通老師の「十牛図の講話」を聴聞してきました。
迷う自分自身の心を、さまよう牛の動きになぞらえて、コントロールすることが可能になった後のストーリーです。

迷う心をコントロールするために、しつけ糸で補強するようにしていたのが、糸があることも忘れて、とらわれのないありのままの自分で毎日を過ごすことができるという話しの流れです。
老師は「真っ白な心」という表現を用いて、とらわれのない心を表現されました。

「仏道をならうといふは自己をならふなり。自己をならふとは自己を忘るるなり。」という道元禅師のお言葉をお聴きして、物事の尺度にとらわれている自分が小さく見えました。

10年前に、こちらの法話会に参加するようになったのは、失礼ながら冷やかし半分で、後列で目立たぬように聴いて、居眠りをすることもありました。老師のお言葉を聞きもらさまいと、最前列の真正面で聴講することは、ありのままの自分であるのです。

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尼僧さん

「フリースタイルな僧侶たち」というフリーマガジンが届きました。
最新号は、尼僧アイドルが取り上げられています。歌手活動をされる尼僧さんがいらっしゃるようです。

戦後間もない頃、愛知県と岐阜県の境を流れる木曽川の両岸には、尼寺が多くあったようです。尼僧さんは大人気で、地域の若い男性に追っかけもおられたようです。

華やかななかにも厳かな雰囲気のある尼僧さんに、新しい風を入れてもらいたいところです。

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かかし

ご近所の田んぼのなかに、かかしを見つけました。
稔っている稲を守るために設置されています。
秋の季語である「かかし」を見ると、季節の変化を実感せざるを得ません
影の薄いかかしです。
宮沢賢治の詩を思い出しました。「雨にも風にも負けず みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず。」
そんな詩のように、愚直に瑞穂を守り続けております。

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一日為されば、一日食らわず。

台風が近づいてきております。皆さまご注意ください。

10月に入りましたが、蒸し暑い日が続きます。

朝方は、小雨が降っておりましたが、お寺の境内で作務(さむ  清掃などの勤め)をしておりました。

芝生を刈って、ほうきで集めているところです。

禅には、「一日為さざれば、一日食らわず。」という言葉があります。

面倒と思えるような作務をしてこそ、おいしいご飯をいただくことができるのです。

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ムラサキシキブ

お寺の庭に、紫色の植物が咲いております。「ムラサキシキブ」というようです。
江戸時代になって、この名前がつけられたようです。程よい紫色が秋の気配を感じさせます。この彩りがいつまで続くことかと眺めております。
「めぐり逢ひて  見しやそれとも分かぬ間に  雲隠れにし  夜半の月影」とは、源氏物語を書いた紫式部の和歌です。

「見たかと思ったらいつの間にか消えてしまった。」という情景とは異なるようですが、不思議な出来事を思い起こさせるムラサキシキブです。

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