台風が近づいて、雨が降り続いています。枯池を埋めたのですが、庭の雨水の流れを観察しております。思うようには行かないようです。
平安時代の白河上皇は、「思い通りにならないものは、将棋の駒の動きと叡山の僧兵と鴨川の水の流れ。」と言われたようですが、水の流れには古代から悩まされたようです。
「行く川の水の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」と大きな視野で眺めていこうと思うところです。
台風が近づいて、雨が降り続いています。枯池を埋めたのですが、庭の雨水の流れを観察しております。思うようには行かないようです。
平安時代の白河上皇は、「思い通りにならないものは、将棋の駒の動きと叡山の僧兵と鴨川の水の流れ。」と言われたようですが、水の流れには古代から悩まされたようです。
「行く川の水の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」と大きな視野で眺めていこうと思うところです。
母の活けた花です。
収穫祭であるハロウィンをイメージしたものであるようです。
アンテナを広げているようにも見えます。この世のあらゆるものから、エネルギーを取り入れているかのようです。
弁護士の先生のところへ行く道すがら、お寺の門前の掲示板を見かけました。
「仏法遥かにあらず。」とあります。弘法大師の「仏法遥かなるにあらず。心中にしてすなわち近し。」から引用されたものと思います。
「仏さまの心は、神秘的なものではなく、自分自身の心のことである。」という解釈をしております。自分自身の心の仏さまの心に気づいたときが「さとり」というのかもしれません。
弘法さまは遠い存在でした。幾度もお参りした高野山は向こう岸にあるように感じておりました。
宗派を超えたお坊さんの交流や、高野山の麓にある弘法さまへの信仰の強いコミュニティのあることを聞くうちに、「すなわち近し」と思うのは、仏法の引き寄せる力が強いからこそと感じております。
掲示板のポスターを貼り替えました。
秋の深まりにつれて、庭の木々がえんじ色に染まっていくかのようです。そんなイメージを掲げたところです。
名古屋駅の近くを歩いていると、ナナちゃん人形の着せ替え作業中です。足を止めて見上げる人が多いのは、定期的な模様替えがあるからでしょうね。
うちの門前の掲示板を貼り替えなくてはと、帰路を急いでおります。
うちの庭にもキンモクセイの香りが漂うようになりました。
秋の深まりを知らせてくれます。
神戸町の中心部にある日吉神社にお参りに行ってきました。
今年は創建1200年に当たり、本殿がきれいに修復されていました。神社の中に三重の塔があり、十一面観音さまがおまつりされるという「神仏習合」の名残りがありました。
中村 建岳和尚さまの結婚披露宴に参加させていただきました。
臨済宗妙心寺派の僧侶で、修行したのは犬山市の瑞泉寺で、住職塾で学んだという共通のレールがあります。お師僧さまは、亡き祖父が教員をしていたときの生徒という深い縁で繋がっております。
多くの出席者とスタッフに恵まれて大盛会でした。
写真にあるのは、本堂のスクリーンで新郎新婦の生い立ちが映し出されているシーンです。歌唱やピアノ演奏があり、長年積み重ねたものが編み出されていました。
時代の先を行く姿に共鳴しておりました。末永くお幸せであることでしょう。
「わたし失敗しませんから。」という決めゼリフのドラマが始まりました。群れることなく自分の信念を貫く姿に共鳴しますが、失敗を繰り返して向上して行く人が大半でしょう。
先日の円覚寺の日曜説教で横田南嶺老師は、人間が人間として生きて行く道としてマインドフルネスを挙げられました。自分の内面を見つめる実践方法のことです。
「人間としての弱さを自覚する。本当の自分とは何かを見つめる。絆を見つめる。傾聴。受容。感謝。自分が何を為すべきかの責任を感じ取る。」というこの世に生きる人間としての役割を果たして行くことへの道を説かれていました。
「これでいいのか。」と不安になることが多くありますが、どう世のため他人のためにお役に立つことができるのか思案の積み重ねが「失敗しませんから。」の自信に行き着くのかもしれません。
書道のお稽古へ行きました。隣の席の方は「風は商気を吹く」と書いておられます。「風が吹けば〇〇」という意味かと思ったのですが、商気とは秋の気配という意味であるようです。
30度を超える一日でしたが、夜になれば風が吹いてきました。風が念を押すかのように秋を知らせてくれます。