百箇日

兵庫県宝塚市から、遠路うちのお寺まで百箇日の法要にお越しくださいました。
宝塚市は歌劇団で聞いたことはありますが、ご縁はありませんでした。ご葬儀や四十九日法要で宝塚市にお伺いしましたが、今回はこちらの神戸町までお越しくださいました。

お経を上げて、「百箇日は卒哭忌と言います。悲しみは尽きることはありませんが、今後ゆったりとお過ごしください。」とお話ししました。「遠く離れた所と思っていたら、お亡くなりになったお父さんは日本大学の先輩とは不思議なご縁です。」とお伝えしました。

その後私の運転で、近所の華渓寺のある曽根城跡をご案内して、大垣駅までお送りしました。
宝塚市と大垣市や神戸町とは街並みが違うようで、私なりに説明しておりました。

若い頃は、祖父母の縁でお客さまがお越しになりました。今ではこのような私を訪ねて遠くから足をお運びくださり感謝しております。

円成寺

大垣市の円成寺で後藤瑞巌老師の毎歳忌(祥月命日)の法要に参列させていただきました。
後藤瑞巌老師の曾孫弟子に当たる土光隆一ご住職が導師をされて、滞りなく法要が終わりました。
山門から入ると、壮大な境内がきれいに掃除されていて、土光和尚が修行された埼玉県の平林寺と重ね合わせていました。

後藤瑞巌老師にご縁のある和尚さまや信者さまがお越しになり、遷化して60年経過してもご遺徳を感じることができました。

直心是道場

本堂内の座敷の床の間の掛け軸を掛け直しました。
「直心是道場」(じきしんこれどうじょう)と書かれていて、妙心寺派の管長をされた平林寺の峰尾大休老師の書かれた墨蹟です。

円覚寺の朝比奈宗源老師の著書によると、峰尾老師が円覚寺に入門された時は、禅語がろくに読めなかったようですが、修行を積まれて、このような達筆を書かれたようです。

私は瑞泉寺に入門した時に、お米の研ぎ方も知らなかったとか、隠侍(老師の従者)で行って、迎えを呼ぼうとして、老師に瑞泉寺の電話番号を聞いたと噂されているかもしれません。

うちには、4カ所掛け軸を掛けるところがあるのですが、3カ所に平林寺の老師の掛け軸がかかっています。先月に平林寺にお参りした影響があります。

祖父は長年高校や大学や高専の国語教員で、大学を卒業してから妙心寺の僧堂に入門して、すぐに召集令状が届いたのですが、林惠鏡老師にいただいた墨蹟や、大垣市出身の後藤瑞巌老師のものを大切にしていました。

祖父が余命宣告をされた39年前に、祖母が病室へ掛け軸を持って行き、誰の作品か祖父に尋ねて書き留めておきました。
私が住職になって30年近くなって、その価値を再発見するわけで、遅すぎるかもしれません。

50歳近くなって、墨蹟を集めるようになったので、後から来る者のために、どなたの作品でどういう因縁かという記録を残しておかないといけません。

草取り

夕暮れ時に庭掃除をしていました。
今月は外出することが多くて、草取りをおろそかにしていました。
草が伸びて、隅のほうでは卒塔婆の高さほどでした。

草取りをしていると、母が除草剤を撒き始めました。これだけ広いと除草剤の力が必要になります。

29年前の修行僧の時、一緒に修行していた同期のお坊さんに、「草取りは大変だ。除草剤を使えばいいのに。」などと言って、「いっかんよ。雲水が除草剤を使うなんて聞いたことないよ。」と笑われたものです。

中年になって、若い時にしなかったことをするとは、遅い青春かあるいは遅い発心かもしれません。

母の教員時代

樹木葬墓地の掃除をしていると、最近にご縁のできた墓石屋さんから連絡がありました。

その方のお友達が、母が40年以上前に一宮市の小学校に勤務していた時に担任していたクラスの生徒であられたようです。

桑海という珍しい苗字を見て、またプロフィール写真のぽっちゃり顔を見て、母の若い頃と似ていて、懐かしくなって連絡をくださったようです。

母は短大卒業後、39年一宮市の小学校に勤務していました。当時は、女性は結婚したら退職するのが一般的でしたが、長年にわたって勤めてくれました。

退職後は、あまり教員時代のご縁と関わることはありませんでしたが、SNSが普及してかつての教え子とつながって喜んでいます。

掛け軸

お客さまがお越しになった後に、家系図を片付けていると、思いついたように掛軸の整理を始めました。


一枚目の平林寺の白水敬山老師の墨蹟を玄関の間に、「慈雲」と書いた墨蹟は本堂の床の間に、「面前露堂々」という墨蹟は奥座敷の床の間に掲げました。

もしおわかりのことがいらっしゃったら教えていただきたいのですが、「慈雲」の墨蹟の書かれた作者は「物外」とありますがどなたでしょうか。「面前露堂々」には「擔雪」とありますが、作者はどなたでしょうか。

突然のお客さま

外出先から帰って来ると、同じ神戸町内の石原家の方から電話があり、これからすぐに訪問したいと言われて、15分でお越しになりました。

こちらの石原家は、大源寺や桑海家と縁の濃い家系で、100年以上前に、うちの檀家であり曾祖父の実家である宇野家から、何代か前のお婆さんがお嫁に行かれたご縁がありました。

13年前に他界した祖母から、何度も口伝で聞いていましたし、ご近所の檀家さんの宇野さんからも、「親戚付き合いして、一緒にスナックへ行ったよ。」というお話しを26年前に聞いていましたので、祖父の作成した家系図を参照して、ご説明しておりました。

臨済宗の教えでは、師匠から弟子に口伝で師資相承されていくもので、血縁で継承されていくものではありません。うちは、檀家さんの宇野家から弟子入りした曾祖父を起源とする桑海家が継承しているので、血縁を頼ってお越しになるようです。

父が他界した40年前に、「君のお父さんは養子だった。」と同級生に聞かされて、ショックを受けたものですが、いろんな苦節や血縁のない祖母との会話で、後世に継承していく役割を果たすことはできるようです。

帰りに、うちの境内にある江戸時代に建立された宇野家のお墓をお参りして帰って行かれました。

大源寺だよりと住職インタビューをお渡ししました。

歴住開堂式

京都市の花園にある妙心寺で、神戸市の祥福寺の岩村宗昂老師の歴住開堂式があり、私も参列させていただきました。
朝の8時から、山門からの行列があり、多くのご縁ある皆さまと拝ませていただきました。

仏殿や法堂や開山堂で法要があり、法堂で老師が登壇されるお姿を拝見して、尊い儀式に参加できたご縁に感謝しておりました。

その後、記念撮影や斎座(おとき 昼食)の時間は、岐阜県の流儀と異なる本山の伝統を感じました。

岩村老師をはじめ、ご縁ある皆様にご挨拶してご縁を深めることができました。

ご挨拶すると、「桑海さん。ところで何であなたも参加しているの?」というご質問が多くありました。

19年前から、河野太通老師の法話会が名古屋市の栄の政秀寺であることを知って、参加させていただくことが、このご縁の始まりでした。その後、木村太邦老師に交代されて、昨年から岩村老師に交代されました。
岩村老師に、「29年前に、瑞泉寺の遠忌でご一緒しましたね。私は補欠の補欠でしたが、よく覚えています。」とお話しすると、懐かしく思われて、当時の修行同期でエース級であった「心洞寺さんと一緒に開堂式にお越しください。」とおっしゃったのが、今回のありがたいご縁につながりました。

私は29年の間に苦節がありましたが、住職を続け、河野太通老師からの法話会に聴聞を続けてきたから、こうやって毎日投稿を続け、僧侶人生が続いているのです。
これからも、岩村老師の法話の聴聞を続けていきます。

妙心寺

明日は神戸市の祥福寺の岩村宗昂老師の歴住開堂式が妙心寺で開催されるので、私と修行同期の和尚さんが末席で参列させていただくことになり、前日から宴席に加えさせていただきました。

33年前からお世話になっている和尚さんに再会して、一緒に写真を撮らせていただきました。

遠く離れていてもどこかでつながっているお坊さんの世界は、不思議なものです。

達磨さん

本堂にある床の間には、なぜか達磨さん像が5体あります。祖父母が好きだったようで、いくつか購入してお祀りしていました。

祖父母の購入した、さほど値もつかない骨董品類が多いものです。

私の元気の間は、床の間に飾っておきたいと思います。