大阪府堺市での葬儀を終えて、帰路についております。
堺市は人口80万3千人で、岐阜市や大垣市を合わせても、とても勝てない人口数です。
朝の8時半から葬儀をして、火葬場に向かいました。火葬場は広いのですが、時間にならないと入場できません。
移動中や火炉の前でおりんを鳴らすことも禁止されていましたが、「郷に入りては郷に従え。」と地域の習わしに従いました。

その後、初七日までの間、仁徳天皇陵まで行ってきました。明治時代に全天皇の陵(みささぎ お墓)が特定されたようですが、根拠は乏しいようです。私のような昭和世代は仁徳天皇陵と教わりましたが、今では、大仙古墳と教科書に表記されているようです。
正面の鳥居は、明治時代に設置されたものであるようです。

私は今上天皇をお慕いしています。地元の教区の法話講習会で、「皇太子(今上天皇)さまのような話し方はやめなさい。お坊さんらしく話しなさい。」と言われて、その後、教区の法話講習会にはいきません。
天皇家も栄枯盛衰があり、古代には強かった権限や財政力も、鎌倉時代以降は弱くなり、江戸時代は、一般庶民には、天皇か将軍のどちらが偉いかわからなかったようです。
明治時代に、天皇を頂点とする立憲君主制国家を作るために、万世一系の天皇のお墓を特定する必要があり、根拠の乏しいまま特定して、後付けで鳥居を設置したようです。
複雑怪奇な歴史を振り返って、歩いて葬儀ホールに向かいました。

収骨と初七日を終えて、南海の堺東駅まで歩いて帰路につきました。
今回のご葬家は、岐阜県御嵩町の出であられるようでびっくりしました。私の修行同期の和尚さんが御嵩町のお寺で住職をしていたので、何度も訪問したものです。
不思議な縁で結ばれているのが、お寺の世界です。
