禅桂寺

大垣駅近くにある禅桂寺の開山忌にお参りしてきました。
こちらのお寺は母の実家の近くで、子どもの頃から散歩で門前を歩いたものです。

先代和尚さまが引退されて、高田和尚が入寺されて新風が吹いて、本堂の前には樹木葬墓地の造成工事が進んでいました。

先代の寺本和尚さまは手先がお器用で弁が立ち、お寺の檀家さんを一気に倍増されました。どのお寺にも栄枯盛衰があるもので、何とか盛り上げていきたいという思いが伝わってきました。

毎日のように熊が出るというニュースを見ます。先代和尚さまは狩猟の免許をお持ちでしたので、お元気なお姿を拝見できればと妄想しております。

お坊さんが狩猟や釣りをする姿を見て、世間の方は「戒を破ると罰が当たる。」と悪く評価します。しかし、生きている命をいただかないと、生きていけないこともあります。懺悔して感謝の気持ちを持つことが大切であると思います。

戒の本来の意味を学んで、檀信徒やご近所の皆さまにお伝えしていくことが報恩であると思い、禅桂寺を後にしました。

遺族会追弔会

ご近所にある真宗大谷派の円受寺で、神戸町遺族会の追弔会があり、神戸町仏教会の会長として参列させていただきました。
幼い頃から大きな本堂の屋根を遥拝していましたが、お寺の境内に入らせていただくのは最近になってからです。

本堂をお参りして、控室でお茶をいただき、ご参列の大谷派のご住職に最近に東本願寺をお参りしたことや、川村妙慶さんのご法話を聴聞したことをお話ししました。

時間になって、本堂に出仕しました。臨済宗では下陣から入っていくのですが、真宗では内陣から出仕する習わしのようです。
経本をお借りして先請弥陀や仏説阿弥陀経というお経を唱和させていただきました。唱和と言っても音痴なので、小さな声でなぞるようにお読みしました。仏説阿弥陀経も観音経も鳩摩羅什(くまらじゅう)が翻訳されたお経で、翻訳された鳩摩羅什は、日本で宗派の違いにこだわっていることに違和感を持たれているかもしれません。

参列された遺族会の参列者の思いが、内陣にまで伝わってくるようでした。

お葬式の変遷

名古屋駅西口のビックカメラへ行こうとすると、小さなお葬式の宣伝映像が大きなスクリーンで流れていました。

コロナ前はゼクシィなどのブライダル関係の会社の映像が多かったような気がしますが、これも少子高齢化や物価高の割には、年金や賃金が上がらないのが、当たり障りのない表向きの理由でしょう。

お寺や葬儀社への不信が大きくなってきたのも一因です。30年前に、うちの総代さんのお父さんがお亡くなりになって、お布施を100万近く請求されてびっくり仰天されたようです。

総代さんは、「一寛くん。早く住職になっておくれ。」と言われて、20歳で住職になりました。

15歳で即位されて、薩長同盟に担がれた明治天皇と重ね合わせることもあります。

葬儀は一世一代の大きな儀式ですが、メンツを保つために封建時代の意識のままでいたのでしょうね。
そんな反動が、今になって価格破壊になって人口に膾炙しているわけです。

私が中学生の時、学校で葬式ごっこをして先生に叱られました。この頃から葬儀のあり方には疑問があったわけで、36年経って表面化してきたわけです。
若い頃はお経が下手で脇僧のレギュラーから外され、戦力外通告をされたものですが、そんな出来事も虚妄であったと振り返っています。

佐賀市からのお客様

外出先から戻ると、見慣れない車が止まっていて佐賀ナンバーでした。
庭を探すとお客様がいらっしゃり、ご用件をお伺いしました。
ご朱印を求めて、13時間かけて車でお越しくださいました。
書き置きのご朱印と大源寺だよりをお渡ししました。

佐賀県といえば、高校時代の修学旅行で通過して、嬉野という街の名を見た覚えがあります。そんな遠い所から訪ねてきてくださるとはありがたいことです。

我に七難八苦を与えたまえ。

昼に母の病院帰りに、近所の寿司屋に入りました。
奥に甲冑があるのでじっくり見ていると、戦国時代の武将の山中鹿之介の甲冑とされるものでした。「我に七難八苦を与えたまえ。」とおっしゃって、苦難を乗り越えて高みを目指そうとされた武将が現代において語られています。

帰ろうとすると、作務衣を着たお坊さんがいらっしゃいました。目が合ってご挨拶をすると、同じ臨済宗の和尚さんで、総代さん3人と、うちの本寺の慈渓寺を視察にお越しになったようです。

私などは神仏に願わなくても七難八苦はやってきます。何とか乗り越えて、こうしてご縁深い方と挨拶を交わすことができました。

お寺に帰ると電話や来客があって、また七難八苦です。でも新しいご縁が広がっていきます。

桃李物言わずとも、蹊(みち)を成す。

2日ほど掃き掃除をしていないと、諸霊から「住職はサボっている。「一日なさざれな一日食らわず。」という百丈禅師の言葉を忘れたか。」という言葉が伝わってくるようです。

晴天のもと、掃き掃除をしていました。落ち葉が多いですね。秋空のもと、きれいに樹木が風に揺られています。

電話やお客様が多くありました。「桃李物言わずとも、蹊(みち)を成す。」とはこのことかと思いました。

ゆらゆらと揺れる樹木が、うちのお寺を風の噂となって伝えてくれます。

赤いモニュメント

新栄の久遠寺からの帰り、11年前まで勤務していた中区役所の前を通りました。

12年前に、赤いモニュメントの前には、生活保護受給者のおじさんが警察官に囲まれていました。

私が帰ろうとすると、おじさん手を振って声をかけてきました。「桑海くん。これからお通夜行くのか。それとも錦へ飲みに行くんか。」と尋ねてきます。「大垣戻って月参りだよ。」と答えていました。

「ところで来月の15日から年金もらえることになったよ。」とおっしゃるので、「知ってるよ。」と答えました。「なんで知っとるんや。」とおっしゃるので、「予言できるんだよ。」と側から見るとおかしな禅問答をしていたものです。

おじさんは、いまお元気かどうかわかりません。「おじさんは木久扇師匠に似てるから菊の字を戒名に入れてあげるよ。」などと調子のいいことを申し上げたのですが、約束は果たせそうにありません。

公私混同と批判されるやり取りをしていたのですが、いまの住職人生には役立っています。

名古屋市の久遠寺報恩講に参拝しました。

未来の住職塾でご縁ができて、12年来の法友である高山信雄さんがご住職をされる、名古屋市中区新栄にある久遠寺の報恩講にお参りさせていただきました。

 

 

こちらのお寺には、何度かお邪魔させていただいていますが、法要に参列するのはこれが初めてで、檀家さんの席でお参りさせていただきました。雨の中でしたが、多くの方がお参りされていました。
8人ほどのご住職が内陣に出仕されていました。皆様が同じ装束を着用されていました。お経のリズムが整っておられますね。私は音痴なので、こちらでは出仕は難しいことでしょう。

高山ご住職は、おじいさまの眼鏡をはめて導師をされていました。表白文(適切でないかもしれません。)で上野(こうずけ)から筑波と述べておられて、親鸞聖人の足跡のことを語る文であったと思います。法難があって今に教えが継承されているようです。

文類偈というお経を全員でご唱和しました。源信は恵心僧都で源空は法然上人のことかなと思いました。

 

 

その後、川村妙慶さんのご法話がありました。川村さんのお話しは、普段の世間話のようなお話しから、すっと信仰を深めるお話しに入っていかれて、聞き入っていました。「娑婆から学ぶ。」というお話を聞いて、12年ほど前、このお寺の近所の生活保護世帯へ行き、世間話をしていたことを思い出しました。
「相手の本質を戦う必要はなくなる。」と言い負かそうとするのではなく、手を取り合うことが大切であると思いました。

親鸞聖人は9歳で得度されて、29歳まで比叡山で修行をされていたようです。六角堂に参籠して聖徳太子のお声があって、法然上人の所へ向かわれて、法然上人は迎え入れてくださったようです。
全く足元に及びませんが、9歳で父が他界してお経を読み始めて、29歳で故松原哲明和尚さまにお会いして、そのご縁で松竹寛山老師と横田南嶺老師のもとに行くことが今に続いています。

名古屋市内の大坊の若坊守さんがお声をかけてくださいました。宗派の違いにこだわるようになったのは、江戸時代の寺請制度ができてからではないでしょうか。そんなしがらみから離れると、お釈迦さまからの教えがわかりやすく伝わってきます。

諸行無常

お世話になる大工さんは、いつもアポなしでお越しになります。
コーヒーを飲んでいると、見慣れた車が駐車場に入ってきて、すぐにどなたかわかりました。

本堂の前にある木が元気がないようで、母と大工さんがじっくりと現場検証しています。その結果は、木を伐採せざるを得ない検証結果があり、びっくり仰天しています。

お寺は諸行無常の現れのように次々と問題が起こります。お寺に常駐して毎日掃除をしていないと異変に気づきません。

逆に言えば、諸行無常があって仏法を語ることができるようです。

父の命日

今日は父の40年目の命日で、墓前や本堂の位牌の前でお経を上げました。


毎年のように、命日反応にさいなまれてきましたが、今年はなぜか安定しています。たまたまなのか心の整理ができたのかは、これからわかってくるでしょう。

日が暮れてから、掃除をしているとぽっちゃりした二匹の動物が通り抜けていきました。猫ではなく、パンダのように目の周りが真っ黒です。不自然な光景を見ました。

父の化身かと思ったのですが、父は痩せ体型でしたので、違うようです。
命日に起きた不自然な巡り合いでした。