大源寺は、もともと小さなお寺でした。
正式な檀家は、十軒にも満たない宇野一族が中心でした。瀬古集落には浄土真宗の門徒さんが多かったのですが、宗派の違いを越えて、大源寺を「ムラのお寺」として支えてくださいました。
臨済宗とはどのような宗派なのか。老師と、学校の校長を務める和尚さんとでは、どちらが偉いのか――。
そんなことにはあまり頓着せず、地域のお寺として大切にしてくださったのでしょう。
祖母が昭和15年に嫁いできたときには、想像していた以上に小さなお寺で、「騙された」と思ったのではないかと聞いています。
檀家といっても、ほとんどが一族です。お寺に十分な預貯金があったわけでもなかったようです。
祖母は子どもに恵まれず、「実家へ帰されるかもしれない」という不安も抱えていたそうです。今とは比べものにならないほど、寺に嫁いだ女性に厳しい時代でした。
一方、祖母の実家は大地主で、小作料を主な収入として暮らしていました。
大源寺の近隣にも、蔵を構え、敷地が四百坪を超えるような大きなお屋敷があります。かつては、田畑を小作に出し、その小作料で家を維持していたお宅もあったのでしょう。
しかし、戦後の農地改革によって、地主の生活は大きく変わりました。
小作料を頼りにしていた家は収入源を失い、広い屋敷や蔵を維持するために、家の者が外へ勤めに出なければならなくなりました。
大源寺には、失うほどの小作料収入も、多くの檀家からの収入もありませんでした。祖父が教員として働き、その給与で寺と家族の生活を支えていたため、農地改革の直接的な影響は比較的小さかったようです。
大きなお屋敷を守るにも、小さなお寺を守るにも、外で働いて収入を得なければならない時代になったのです。
戦後、檀家数が二桁ほどのお寺では、住職が教員や公務員として勤めることが珍しくありませんでした。
「寺を守る」
「家名を絶やさない」
その強い使命感が、二足の草鞋を履かせてきたのでしょう。
私がお寺の仕事だけで生計を立てられているのは、実力だけではなく、時代やご縁に恵まれた部分が大きいと思っています。
ある後輩のお坊さんが、こんな悩みを話してくれました。
「妻が、外で働いて稼いだお金を、どうしてお寺に入れなければならないのかと怒るんです」
私は答えました。
「奥さんが怒るのは当然だよ。本来は、奥さんがお寺から給与を受け取る立場なんだよ」
住職やその家族が、外で得た収入を無償で寺へ注ぎ込み続ける。
それを「奉仕」や「寺を守る覚悟」という言葉だけで当然視していては、いつか家族が疲弊します。次の世代に引き継ぐこともできません。
戦後間もなくから続いてきた「二足の草鞋」による寺院経営は、今、大きな限界を迎えています。
寺を守る人が、いつまでも寺の奉公人であってはなりません。
寺院が一つの組織として収入を生み、そこで働く住職や家族に、正当な給与を支払う。
その仕組みを整えることこそ、これからのお寺を守ることにつながるのだと思います。
