父がどこへ行ったのか。

10月になると、10日は祖母の命日、24日は父の命日、30日は曾祖父の命日と、血縁者の命日が続きます。境内の墓地には金木犀が咲いて、よい香りが漂っています。

 

40年前に、父が前触れもなく冷たくなって帰宅したもので、その時のことが今でもフラッシュバックのように蘇ってきます。当時は、グリーフケアなどという言葉がなかったもので、自死者の息子と冷たい視線で見られたものです。

「父はどこへ行ったのか。」と祖母に尋ねてもろくな答えが返ってくることはありません。
「お寺を守っていって、父がどこへ行くのか知ることができる。」と小僧の真似事をして、若君のようにお経を読みに行きました。

修行をしても、父がどこへ行ったのか気づくことはできませんでした。住職になっても行事作法にこだわって、自分の心を穏やかにはできませんでした。

横田南嶺老師に10年前にお会いして、お説教を聴聞するようになって、ようやくうっすらと見えてきました。父はすぐ目の前にいるのです。

 

 

円覚寺の2代前の、朝比奈宗源老師は、幼少期にご両親を亡くされて、ご両親はどこへいかれたのかを知りたいと仏門に入られたようです。長く修行を積まれて、「私たちは、仏心という広い海に浮かぶものである。」と説かれました。

遠い所に行ったわけでもなく、いつも身近にいてくれるわけです。お寺の境内にある父や祖母のお墓に行くと、いつもお小言を言われているようです。
ゆったりと見守ってくれて、感謝の気持ちが湧いてきます。

横田南嶺老師のお話しをお聴きして、臨済宗の僧侶であったことをうれしく思います。また高校の時にお世話になった先生は、朝比奈宗源老師のもとで修行されて、お寺には朝比奈老師の賛辞がありました。

 

仏心の大海に浮かんでいて、ご縁がつながっていてありがたい思いです。

これから毎月、東京の麟祥院での勉強会でお目にかかるので、研鑽を積んでいきたいです。