住職になっても修行し続けること。

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名古屋市の栄にある、臨済宗妙心寺派の政秀寺で、河野太通老師の「十牛図」の講義を聴聞してきました。

こちらに出てくる牛とは、自分自身の仏心すなわち悟りの心です。

迷いによって自分自身の方向性を見失ってしまった。先人の足跡をたどるなどして、やっとのこと、自分の軸の象徴である牛を捕らえことができた。その後、どう牛を飼い慣らすかということです。

「鼻索強くひいて、擬議をいれざれ。」というくだりで、自分自身に生じてくる迷いの綱を強く引いていくことの大切さを説かれました。

修行をしてお寺の住職になったとしても、また迷いというものが生じてきます。迷いを持ったままの住職の説法を聴く人などいません。

禅の教えでは、「聖胎長養」すなわち「悟りの後の修行」というものが必要とされます。

京都の大徳寺の開山の興禅大燈国師 宗峰妙超禅師は、悟りの後20年間にわたり、五条大橋の下で、ホームレスの生活を送られました。妙心寺の開山の無相大師 関山慧玄禅師は、悟りの後20年にわたり、岐阜県の美濃加茂市にある伊深の里で農耕生活を送られました。

長年にわたる社会との関わりのもと、世間の多くの皆さまに仏法をお伝えすることができるのです。

帰りの地下鉄で、ピアスにタトウーの若い二人組が「オレも坊さんになりたいな。」と語りかけてきました。「君たちもこれから人生の経験を積みなさい。ヤンチャしていたほうが歳をとってから、語りに重みが出るんだよ。」と伝えました。

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