分別をなくすこと。

「分別をわきまえる。」とは、「自分自身の立場をわきまえて、社会のルールを守る。モラルを保つ。」と意味で用いられます。

仏教の禅の教えでは、「分別をなくせ。」という教えがあります。突拍子もない表現です。

禅で否定される「分別」とは、物事を判断するにあたっての「固定されたモノの尺度」です。例えば、平成の始めの頃に「三高」というモノの尺度で、人の価値を評価されることがありました。「「高身長、高学歴、高収入。」の三つが整えば、その方の未来は明るい。」という根拠の乏しい常識が通用していたものです。

世間の評価がどれほど正しいのか客観視するために、分別をなくすことが求められるのです。

 

禅の修行では、世間での評価というものをリセットすることから始めます。遮光レンズを外すためにリセットを求められるのです。そうして、古くからの仏さまの教えや禅の教えを、吸い込むように身につけていきます。

一旦リセットした価値観を否定せずに、客観視することが、お釈迦さまの説かれた「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静   (この世のものはすべて移り変わる。いかなるものも、とらわれるものはない。とらわれの心をなくしたところに、安らぎの境地がある。」という境地へとつながるのです。

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