お寺の庭のチューリップが咲いております。
チューリップは、トルコが原産地のようですが、16世紀にヨーロッパに伝えられ、オランダで品種改良されて現在の型になったようです。
花言葉は、「博愛 思いやり」であるようです。仏教でいう慈悲にあたるのでしょうか。
お寺の庭でチューリップが咲くようになったのは、最近のことです。住職に慈悲の実践を促しております。
お寺の庭のチューリップが咲いております。
チューリップは、トルコが原産地のようですが、16世紀にヨーロッパに伝えられ、オランダで品種改良されて現在の型になったようです。
花言葉は、「博愛 思いやり」であるようです。仏教でいう慈悲にあたるのでしょうか。
お寺の庭でチューリップが咲くようになったのは、最近のことです。住職に慈悲の実践を促しております。
本堂前のドウダンツツジの花が、きれいに咲いております。桜のような華やかさはありませんが、静かに春を告げております。
湿った土壌を好んで、肥料を与えなくてもよく育ちます。このような姿を見て、「山川草木悉有仏性 (さんせんそうもく しっつぶっしょう)」という言葉を思い出しました。山や川や草や木など、あらゆる自然界には仏さまの心が宿っているという教えです。
どんな逆境においても、生き抜くようにと諭してくれるようです。
「永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩という。」とは、奈良の薬師寺の管主であられた故高田好胤師のお言葉です。
修行道場での生活を終えて、お寺へ戻り「和尚さん」と持ち上げられるといい気になってしまいます。住職という肩書きに向けて、頭を下げておられることに気づかなかったものです。
住職になって、檀家さんからのクレームを聴いて、自分を磨きお寺が興隆するように励むことも修行と捉えております。
禅僧の修行は、雑巾がけをすることから始まります。
修行僧の頃は、床の上を早くきれいにしようとしても、やり残しが多かったものです。
本堂内の濡れ縁の上の雑巾がけをしております。
汚れ具合を見ながら、雨漏りの可能性がないかを確認しております。
そんな折に、本堂の柱にかかった聯(れん 対句を書いた一対の木札)の禅語が目に入ってきました。
「水月道場に坐して、空華の万行を修す。」とお読みします。
「水や月のようなとらわれのないところで坐禅をして、心が鏡のようにあらゆるものをきれいに映し出す。」と解釈しております。
面倒なことに思える雑巾がけを実践していると、鏡に映し出すように思わぬことを発見することができるのです。
工務店さんから、鐘楼修復工事に使用する木材を調達したとのご連絡をいただき、さっそく工場にお伺いしました。岐阜県の東濃ヒノキが揃えられていました。
しばらくの間、工場内での施工が進むようです。本格工事は、5月のゴールデンウィーク明けから開始する予定です。
僧侶は、出家してそれまでの人間関係や価値観をリセットして修行を積んでいき、世間の皆さまに法を説いていく立場におります。
宗教法人であるお寺の代表役員である住職という立場は、いかに組織を運営して行くかが評価されるのです。
双方の立場は、相反するようですが、修行で実践した仏さまの教えを、いかに多くの人にお伝えして、組織を守るのかという共通項があります。
形骸化したものを削ぎ落とし、いかに現代のあり方を受け入れていき、法を説いていくのかが腕の見せどころです。