鐘楼を修復するにあたり、職人さんの手によって木材が加工されています。
木材を加工するにも、熟練の技の域に達するには、5年以上の修行が必要となるようです。
「桃栗三年 柿八年。」という何事も成し遂げるには時間を要するというたとえがあります。
この後には、「住職30年。」という語句が続くのでしょうか。
鐘楼を修復するにあたり、職人さんの手によって木材が加工されています。
木材を加工するにも、熟練の技の域に達するには、5年以上の修行が必要となるようです。
「桃栗三年 柿八年。」という何事も成し遂げるには時間を要するというたとえがあります。
この後には、「住職30年。」という語句が続くのでしょうか。
晴れ空でありながら、強い風の吹く一日でした。
そういう天候のもと、鐘楼の四方に足場が組まれました。
階段を上って屋根を見ると、瓦や野地板の傷みに気づきます。
100年間、風雪に耐えた歴史を読み取ることができます。
もうじき、役目を終えることになります。
インターネットが普及している現代でも、お寺が地域に発信するものは、仏さまの教えをかみくだいたメッセージです。
大源寺でも、伝道掲示板を道路沿いに設置することになりました。短くてわかりやすいメッセージを皆さまにお伝えしていこうと考えております。
本堂の前の階段に、ネコがゆっくりと休んでおりました。
「これこれ、殿中でござる。」などと無粋なことは言いません。
ネコにとっても安らぐ空間であるようです。
中国の古典の一節に、「桃李もの言わざれど、下自ずから蹊を成す。」というくだりがあります。
「桃やすももは物を言わないが、そのおいしさや美しさで自ずから人が集まる。」という解釈をしております。
うちのお寺が安らぎの空間であり、やがては「行列のできるお寺。」にしていきたいところです。
本堂に、神社のご神体のような鏡があります。
仏さまの前にお供えするのは、 場違いではないかと考えておりました。
仏具屋さんに根拠をお尋ねすると、「仏さまの光を十方に遍く照らす。」という意味合いがあるようです。
臨済宗のお寺では、あまりお見かけすることはありません。臨済宗では、「自分の心のなかにこそ、仏さまの心がある。」という教えがあるからでしょうか。
「鏡に写し出すように、自分の心のなかを写し出す。」ことを願って、お供えすることになったのではと推測しております。
10年前に、故松原哲明和尚さまを慕って、東京都世田谷区野沢にある龍雲寺での勉強会に、たびたび参加させていただきました。松原師のお話しをお聴きしていると、どこか私の価値観と似ているところを感じました。
勉強会では、法話の材料を写したプリントを惜しみなくお渡ししてくださいました。そのプリントは今でも大切に取ってあります。
材料をいただいたとしても、その後どう調理するのかは本人の工夫次第です。松原師からいただいたプリントの半分くらいは、理解することができたかと認識しております。
私も、お若い人たちに、材料を惜しみなくお渡ししております。ただこちらの意図したように調理なさる人は、ごくわずかです。材料をどう活かしていくかは、知恵と工夫にによるところが大きいのです。
昨日の雨空とは打って変わり、晴れ空の一日でした。
満月が鐘楼をライトアップしているかのようです。
幽玄な雰囲気を醸し出しております。
住職の母が、玄関の間のダルマさんのお膝元にお花を生けました。
この作品のお題を尋ねると、「題というものはない。」と言います。まるで達磨大師が梁の武帝の質問に、「不識(知らない)」とお答えになったようです。
住職はその故事にちなんで「不識(ふしき)」と名付けました。
鐘楼の前にある梅の実が形よく実ってきました。もう少し大きくなった頃を見計らって摘みます。
梅ジュースを何枚も飲んだ昔を、思い出しております。
旧知の和尚さんから連絡をいただきました。
「大源寺だよりを送ってほしい。」というご依頼です。
20年前、住職が犬山の瑞泉寺の修行道場にいたときからの長いお付き合いで、たびたびお会いしては、旧交を温めておりました。
今年から四国の香川県高松市のお寺へ赴任されて、寂しくなると思っていた矢先の出来事でした。
仏さまのご縁によって、古くからのご縁を手繰りよせることのできる喜びを感じております。