掲示板のポスターを貼り替えました。
「何かをしようとするとき、周りの人の動きを気にしますが、自分自身の気持ちを大切にしてほしい。」という気持ちを込めて掲げさせていただきました。
月: 2017年9月
臨済録
雨が上がってきれいな夕空のもと、名古屋市の栄にある政秀寺で臨済録の講話を聴聞してきました。
ある修行僧が前に進み出て臨済禅師に拝んだ。そうすると臨済禅師は「喝」と叫んだ。修行僧も喝と言い返した。」そうして「修行僧の中の前堂と後堂のリーダー二人が喝と言い合っていた。それを見た一人の修行僧が臨済禅師に「このやりとりに優劣はありますか。」と尋ねると、「ある。やっている二人に尋ねよ。」
このようなストーリーの講話でした。まるで酔っ払いのケンカのようなやりとりです。
老師は、「このやりとりは平等の教えを示している。」と説かれました。喝と言い合っている最中は、不公平な差別というものがあります。次第にとらわれの心がなくなって、「言い合う相手と共に生きている。」という平等の心に行き着くという解釈をしております。
傘を振り回して、「この野郎。」と怒鳴ってきたお婆さんとのやりとりを思い出しました。私は喝と言うかのように厳しく応じるうちに、「お互いさま。」という気持ちが湧いてきたものです。
「この臨済録を読み解いて行くには、僧堂での修行ばかりでなく一般社会での経験を積むことを欠かすことができない。」という思いを抱きつつ、栄の街を歩いて帰路につきました。
檀家さんがお寺から離れていく理由に、「お布施の不明朗」が挙げられています。こればかりでなく、「イエ制度が変わって、跡取り息子という立場が消えつつあること。」や「仏教儀礼の意味を伝えきれていない。」なども加えて考えていくべきでしょう。
「一つのお寺に檀家さん世帯が300あれば、お布施だけで寺院経営が成り立つ。」ということは、経済学的や経営学的には間違いのないことです。うちのお寺は、この理想的な世帯数に遠く及ばず、地元の仏教会に属するお寺の中でも理想的モデルのお寺は1割にも満たないところです。
理想的モデルとのギャップを感じつつ、現代の社会像に合わせて法を説き信仰を広めることが、長く息の続く寺院経営につながると考えております。
バトンリレーの時季
柿の実が大きくなってきました。
季節の移り変わりを示すかのように、彼岸花と隣り合わせに稔っています。バトンリレーの時季であるようです。
屋根の点検
本堂の天井に、横から降り込む雨になると雨水が入ってくることに気づき、足場を組んでの屋根の点検をお願いしました。
瓦の上での水の流れが滞っていたことが原因であったようで、さっそく補修してくださいました。
循環がうまくいかないと、支障をきたすのは人体を見ているかのようです。ご本尊の十一面観音さまが、少しのほつれを見逃さず、早めに手を打つように教え示してくださったようです。
生涯を終えて、この世に生きたことの証しとして葬られるにあたり、行き場のない遺骨があるとは悲しいことです。
家族関係の変化やこれまでの儀礼に合わせていくことが困難になったことが、「さまよう遺骨」の増える原因と思われます。
死後の世界は平等であることが理想です。どうにか手を差し伸べることができないかと思います。
年忌法要
「そういえば今年は大垣のおばあさんの七回忌にあたるね。」と母と話していました。
母方の祖母のことです。誰よりも私のことを気にかけてくれたのですが、四十九日以降は、年忌法要が勤められることはありませんでした。
「じゃあ法要をうちで勤めよう。」ということになりました。
これまではイエ制度に縛られて、嫁いだ娘のほうで年忌法要を行なうことは良しとされませんでした。
しがらみを外して、母方の祖母に少しでもお返しができればと考えております。
幼い頃から、母方の祖母に連れられて、高野山に何度も行きました。「弘法さんは何でも聴いてくださる。」と話していました。そうすると父方の祖母は、「うちは禅宗なのに。」と快く思っていませんでした。
どういうわけか、うちのお寺にも弘法大師像があります。
イエ制度や宗派というものに縛られていたことを、仏祖は快く思っておられないことでしょう。
小さなお寺の跡取り息子でしたから、先例を踏襲して穏便に事を済ませておりました。
時代の流れとともに、思わぬところからトラブルが生じてきます。
「知らなかった。」とか「よかれと思ってしたこと。」から訴訟にまでつながることがあるようです。
少しずつ裁判の判例を読みながら、トラブルを起こさないように思案しております。
納骨堂を設置するには、行政の許可が必要であることはあまり知られていないようです。
建築反対運動まで出ているとは、驚きました。
世の役に立つつもりが苦を与えるのであれば、これでいいのか軌道修正するべきではないかと思います。
ヒマワリ
庭の隅に、ヒマワリが咲いています。
どこからか種が運ばれてきたようです。お彼岸にきれいに咲いているのは不思議な縁です。