常飯とは。

月命日というわけではありませんが、住職の祖母の墓前に行きました。

お経を読むというよりは、生前に老人ホームへ行ったときのように、近況の報告に向かいました。

大源寺のある岐阜県の西濃地方では、月命日のお参りのことを常飯と言います。故人にご飯をお供えするして、目の前にいるかのように語りかけて、故人の心を尋ねることから由来するのではと思います。

仏さまへ手を合わせて自分の心が円満であることを願うことと、供養の心から故人の心を読み解くことは同じものなのです。

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太い骨組み。

鐘楼を囲んだ足場に登り、写真を撮らせていただきました。

長い軒先を支えるための枕の役割を果たす「桔木(はねぎ)」が据え付けられています。

今後永い年月をかけて保持するために、太い骨組みが必要となるのです。

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人間万事塞翁が馬。

工事中にはアクシデントというものがつきものです。

今日からクレーン車が入って、鐘楼の屋根の上に大木を搬入する工事が始まりました。

職人さんが大木を加工されているときに、電気ブレーカーが下りてしまいました。

大工さんからの報告電話を受けて、住職は外出先からすぐに引き返しました。

屋外用のブレーカーがどこにあるのかわかりません。探し回った末に、見つけて電気が復旧しました。

すぐに戻るところにいて早急に復旧したからよいものの、もし遠くにいたらと考えるとぞっとします。

「人間万事塞翁が馬」と言います。思わぬアクシデントがあっても、そのことを今後同じことが起きたときの教材と捉えて、危機管理をしていくことが大切なのです。

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皐月も終わりというに。

皐月の終わりもあと5日というときに、サツキの花をハーモニーが庭の彩りを明るくしております。

4月はドウダンツツジ、5月はサツキ、6月はアジサイというように、バトンタッチをするかのように光明を照らしてくれているようです。

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あじさい

お寺の境内の西側の隅で、サツキとともにあじさいが色づいてきました。

あじさいの花言葉はたくさんあるようでが、「一家団欒」というメッセージも隠れているようです。小さな花びらが寄り集まって、団結するように咲いているからです。

お寺というものも、小さな信仰心が団結してサンガという組織が大きくなったものであることに、気づくことができます。

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みんなのお寺

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京都の東本願寺まで行ってきました。

改修されてきれいになった阿弥陀堂と、親鸞聖人の像が祀られる御影堂をお参りさせていただきました。

阿弥陀堂から御影堂までの渡り廊下に、「多くの門徒さまのご寄付のもとに再建されました。」というプレートがありました。真宗大谷派のご門徒みんなのお寺という意識が強いのでしょう。

 

大源寺のほうでは、16年前に皆さまのご寄付をいただいて大修復しましたが、「皆さまのおかげで」という言葉は数えるほどしかありませんでした。きれいになった本堂を、皆さまのお役に立てることはありませんでした。

 

東本願寺に隣接するしんらん交流館で、「お寺の本堂葬儀」の講義を受けました。仏さまの安心の空間である本堂で、最期のお弔いをすることができれば、より信仰を深めていくことができることです。

手間を惜しまなければ、普及させていくことができるのでしょうが、片手間ではいかない努力が必要となります。長期的な視野のもと、「みんなのお寺」というところにたどり着くことができればと考えております。

 

東本願寺の門の屋根に、鳥が止まっていました。多くの観光客が足を止めて「鳳凰だ」と感嘆の声をあげておられました。極楽浄土や阿弥陀さまは自分自身の心の中におられるという「己心の弥陀、唯心の浄土」という言葉を思い出しておりました。

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お寺の住職をすることの不思議。

今年は気候が安定せずに、境内のサツキの開花が遅れていましたが、5月の後半に差し掛かって、やっと花が開き始めました。

毎年恒例のことでも、少しでも遅れると不安になるものです。

お参りを終えて近所の堤防を通りかかると、お寺によくお参りにおいでくださる90歳の女性が散歩しておられます。車から降りて、ごあいさつに行きました。「和尚さん。大源寺だよりを楽しみにしとるわ。年2回を年6回くらいにしたほうがいいと思う。」とおっしゃいます。

恒例行事のように、大源寺だよりの発行を心待ちにしてくださることは、ありがたいことです。

気候に順応して花開く植物のように、大源寺だよりの原稿を書き進めていきます。

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建立当時の事情を知ること。

お寺の境内にある建物のことを伽藍(がらん)と言います。

伽藍を維持していくには費用がかかりますが、建立当時の事情を知ることが必要となります。

大正10年に鐘楼、昭和15年に本堂が建立されたとき、どのように発願されて、どういう経緯があったのかのイメージを膨らませて仮設を立てて、その当時を知る人からお聴きして確証を得ることが、未来へ向けての航路図を描いていくための土台作りとなるのです。

幸いにも、お隣に90歳を超えられた語り部がおられます。往年の歴史を教えていただくには、まず伽藍の内部を隅々まで把握することが必要となります。甘い認識ではお叱りを受けます。

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寸分の狂いなく

鐘楼の四面に地垂木が据え付けられました。

朝の8時半から夕方の6時まで、緻密な作業が続いております。

寸分の狂いなく、地垂木を据え付けるには、集中力ばかりでなく長年の蓄積された技が必要となります。

間近で匠の技を拝見して、後世への継承への使命を感じております。

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野菜根を煮て

ご近所のお宅からお野菜をいただきました。

住職は料理をすることが苦手ですが、野菜を毎日いただきます。

野菜を見ていると、興禅大燈国師遺誡の一節を思い出しました。

「野外に綿絶し、一把芽底折脚鐺内に、野菜根を煮て喫して日を過ごすとも、専一に己事を究明する底は、老僧と日日相見報恩底の人なり。」というところです。

「お寺というものに属さず、野菜を育てて調理するなどして毎日を過ごす人も、誠に参禅弁道するしていれば、修行道場で老僧に教えを受けることと同じほど、尊いことである。」という解釈でしょうか。

お寺の組織というものにとらわれ安住するものにとって、野菜が僧侶のあり方を教示してくれるようです。

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