澄み渡った青空が広がっていました。

朝から晩まで馬車馬ほどではなく働いていました。
納骨法要が3件もあるというのは、今後もそうないことでしょう。
朝は11人お越しになり、お経の様子を動画に撮っていかれました。

午後からは2件あり、お客さまのお名前を間違えてはいけません。トラブルのないように穏やかな接遇をしております。

休憩時間には、近所の檀家のおばさんがお越しになり、世間話のお相手をしていました。
お客さまがお越しになると、お寺が活性化していきます。皆さまとのご縁を大切にしていきます。

澄み渡った青空が広がっていました。

朝から晩まで馬車馬ほどではなく働いていました。
納骨法要が3件もあるというのは、今後もそうないことでしょう。
朝は11人お越しになり、お経の様子を動画に撮っていかれました。

午後からは2件あり、お客さまのお名前を間違えてはいけません。トラブルのないように穏やかな接遇をしております。

休憩時間には、近所の檀家のおばさんがお越しになり、世間話のお相手をしていました。
お客さまがお越しになると、お寺が活性化していきます。皆さまとのご縁を大切にしていきます。

堺市から帰ると、樹木葬墓地には落ち葉が散っていました。
休憩してから掃き掃除をすると、すっかり日が落ちていきました。
あと1ヶ月は、こういうことの繰り返しが続きます。
お墓参りのお客さまとお話ししては、手足を動かしています。
お仏壇の閉眼のため大阪府堺市までやって来ました。
岐阜県ののどかな雰囲気と違い、街行く人が多いですね。

市民運動の団体が街頭演説をしています。耳を傾けると、「不倫はいけません。不倫は文化ではありません。」と熱く語っておられました。
岐阜県では見かけない光景です。
「大源寺だよりの原稿締め切りが迫っているので、早く帰寺せよ。」とはLINEが届きました。
のんびりとしていられません。

朝9時からの葬儀告別式は無事に終わりました。

袈裟を着用しようとすると、丸い環が外れてきました。袈裟の生地を止める糸が、老朽化でちぎれていました。
慌てて、生地の裏側にある留め紐で止めて、JA葬祭の職員に助けを求めて、定刻通りに開式しました。

予定通り40分で葬儀が終わり、控え室に戻りました。法衣をたたんでいると、参列していた母が入ってきました。「継続危機事態で焦っていたことがわかった?」と尋ねると、母は微塵にも感じなかったようです。
その後、午後1時頃に初七日が終わって帰ろうとすると、ご遺族があいさつにお越しになりました。
「すぐ隣りで、電気がついていたら、何でも聞きにきてくださいね。」とお伝えして帰りました。
43年前のもう一代前のおじいさんのお葬式の時は、ご自宅の仏壇前でお経を上げて、葬列を組んで本堂前で3周して、本堂に上がって葬儀をしたものです。
なぜこんなことがわかるのかというと、私が未就学児なのに法衣を着て参列したからです。
今となっては、信仰というよりは世間体で動いていたことがわかります。
家族に疲労が残って、ありがた迷惑な儀礼は変えていくべきなのです。
チンボンジャランの鳴らし物などは、一般家庭ではお目にかかることは少なくなりました。
鎌倉時代からの、没後作僧(もつごさくそう)というお亡くなりになってからお坊さんになっていただき、お見送りするストーリーの説明がないと、今後は葬式無用という世間の流れになってしまいます。

すぐ隣りの檀家のおじいさんがお亡くなりになり、お通夜のお経を上げに行きました。
臨済宗ではお通夜の時に、ご参列の皆さまとご唱和することはあまりありません。
浄土真宗の門徒さんのお通夜に参列した時、正信偈をご唱和されている光景を拝見して、今回から、お通夜でのご唱和を取り入れました。
最初から最後までの唱和で、最初のうちは声がそろっていませんでしたが、白隠禅師坐禅和讃では皆さまのお声がそろってきました。
終わりに法話をさせていただきました。話しが長くなりました。九文字の戒名のうちの「勝満」は、聖武天皇の法号から引用させていただいたと説明しました。
最近はお経も法話も長くなり、司会の方からの圧を感じております。

25年前の今日、若干24歳で住職になる晋山式を行なったのですが、参列された方からの評価は寒々しいものでした。
「檀家10軒しかないお寺の舵取りは難しい。」とか、「金持ちの娘をもらって、食わせてもらえばいい。」と主賓の高僧に言われました。
極めつけは、「私が入寺するお寺は、檀家が400軒あって、手伝いに来ると年間88万円入ってきます。」と豪語した人もいました。
当時は深く失望したものですが、皮肉を言った方々の多くが放漫経営のツケで、お寺が苦しくなっています。
諸行無常のならいですが、どれだけ修行を積んでもお寺の舵取りまでは、たやすくはできないものです。平成初期のバブルの恩恵を受けられた方々には、改善など難しいものでしょう。

3年前からお世話になる船井総研の寺院経営勉強会があり、参加させていただきました。
東京都の巣鴨にある功徳院の松島住職が、お寺にご縁のある方々にどのようにコミュニケーションを深めていくのか教えてくださいました。
その後、全国のお坊さんとの意見交換で、お寺の活動を教えていただきました。
最後に、今年一年の活動で表彰を受けてビックリしています。
25年前は、檀家数は封建時代の大名の石高のように評価されていました。しかし、ご縁の深い檀家さんもいれば、必要最小限の関係を求める、お寺からの片想いの檀家さんもいます。
価値観も変わった25年のうちに、お寺と一般市民の関係を変革させていかないと、かつての政権与党のように弱体化していくことでしょう。
お釈迦さまからの教えを受け継いで、皆さまにお伝えしていくために、江戸幕府の設けた寺請制度を見直して、新しいシステムに変えていく時代であると思いました。

東京駅に着いたら、大学時代の同級生の鳥井正彦くんが東京駅周辺にお勤めであることを思い出して、電話したら出てくださり、東京駅近くで急遽お会いしました。
卒業して25年経ち、まったく違う仕事をしていますが、こうしてご縁が続いて感謝しております。

東京都文京区湯島にある麟祥院で、臨済録などの禅語録を読み解く勉強会に参加させていただきました。

19年前から2年間、松原哲明和尚さまの勉強会に参加しておりましたが、地元でのよく思わない抵抗勢力に阻まれて、心が病んで折れてしまいました。
いろんなご縁があって、17年の断絶を経て、第2章としてまた勉強会に参加させていただきました。
駒沢大学の小川隆先生と、円覚寺の横田南嶺老師のご講義でした。小川先生のお話しを聴くと、臨済宗は多くのグループの連合体ですあることがわかりました。
五宗七派といい、無事禅や平常禅で意見対立することもあったようです。某政権与党のように、右に向くこともあれば、左に向くこともあるようで、均衡を保ってきたようです。
横田南嶺老師の臨済録のご講義は、理解するのは生半可な経験知識では困難なことです。
私のような物覚えの悪い者でも、30年住職をしたから、黄檗禅師とのパワハラに見えるやり取りが理解できるのです。

20年近く臨済宗の法話を学んで、楽しさがわかってきました。岐阜県で「お前はダメだ。」と引導を渡された時に、関東の松竹寛山老師に救いを求めたらどうなったかと妄想しておりました。
私に引導を渡された和尚さんのご出身地が横田南嶺老師のご出身地の隣町ですあることも、いろんなご縁が交わる臨済宗のご縁の不思議を感じております。

朝起きると、樹木葬墓地の芝生の上に桜の葉が落ちていました。昨日一日中雨が降っていたので、散らかっていました。

竹ぼうきを持っていって、掃き集めました。
雲水の頃は、朝の日天掃除は嫌々手を動かしていたものです。どういうわけか、歳をとってからの方が身体が動きます。
お花にはカタツムリが休憩していました。きっと居心地がいいのでしょう。

雨が降り続く一日でした。
樹木葬墓地は、桜の葉が散って、もみじが紅くなってきました。
最近、張り切って掃除をするので、母は、「自分の身に何か起きたのか。」と心配しております。
私は、そんなに手際よく動けることはないのです。祥福寺の岩村老師が、「掃除を真面目に行なうかで、道心がわかる。」とおっしゃったので、50歳を前に真面目に掃除をしております。
ただゆっくり過ぎて、僧堂生活には向かないようです。