名古屋市の街中で、親近感を抱く屋号のそば屋さんを見つけました。
住職になった頃から「名前は立派だね。」と冷やかされたものですが、小さくとも息長くやり抜くことが信条であることは共通するようです。
名古屋市の街中で、親近感を抱く屋号のそば屋さんを見つけました。
住職になった頃から「名前は立派だね。」と冷やかされたものですが、小さくとも息長くやり抜くことが信条であることは共通するようです。
11月もあと2日となりました。
庭木の紅葉に合わせるかのように、観音さまのお顔が優しく微笑んでおられるようです。
横田南嶺老師の「こころころころ」という本を読ませていただきました。
横田老師が兼務をされる、東京都文京区白山にある龍雲院の檀家さんの世帯へ、禅の教えをコンパクトにまとめて、はがきに書いて送付されたものをまとめた本です。
「今の時代、「寺離れ」と言ってお寺から足が遠のいている。それは、お寺の中で何が行われているのかをお知らせして、日々の修行で得てきた仏さまの教えをお伝えすることが疎かになっているからである。」という前書きのもと、わかりやすい言葉で琴線に触れるように、仏さまの教え禅の教えが説かれていました。
私が高校生の頃、同級生の女の子から、「お寺は普段何をするところなの。」と質問されて、「法事やお葬式や年中行事をするところだよ。」と答えていました。儀礼というものにとらわれていたのです。
「お寺は、仏さまの教えを聴き、仏さまの心に触れるところである。」ということを、お伝えして行きます。
「永代供養墓」という名前を知ってから6年が経ちます。
うちのお寺にも、永代供養墓を建てることができました。観音さまのお慈悲のもと、永代にわたって供養させていただきます。
観音さまから、「永代にわたってというのならば、早く後継者を作りなさい。」というお言葉があるようです。ひたすらに「念彼観音力 (観音さま。お救いください。)」とおすがりしております。
臨済宗の僧堂では、12月1日から8日未明まで、臘ハ大摂心(ろうはつおおぜっしん)と言って、ひたすらに坐禅をする期間に入ります。
お釈迦さまが菩提樹のもとで坐禅を続けて、悟りを開かれたことに由来します。
犬山市の瑞泉寺僧堂に「臘八供養」と言って、修行中の食料品の足しにと寸志をお持ちしました。雲水さんに激励をして、大源寺だよりをお渡しして後にしました。
私がいたときは、突風の吹く中でも、うとうと居眠りをしていたことを思い出しました。
そんな私が住職を続けていることに、お釈迦さまは「奇なるかな。奇なるかな。(何という不思議なことだ。)」と驚いておられるかもしれません。
「フリースタイルな僧侶たち」という宗派を超えたお坊さんの活動を紹介するフリーペーパーがあります。
最新号には、愛知県春日井市におられる、同じ臨済宗妙心寺派の野田芳樹和尚さまが紹介されています。
「おてらおやつクラブ」と言って、仏さまにお供えされたお菓子などを、生活にお困りのお子さまがいらっしゃるお宅にお送りしていこうという活動を積極的にされています。
私も裕福ではない母子家庭に育ちましたが、母方の祖母がお菓子を送ってくれたときはうれしかったものです。
この冊子を読んでいるとき、大学時代の同級生から電話をいただきました。「お寺おやつクラブの活動を知ったけど、私も協力したい。桑海くんのお寺にお菓子を送るから、お困りのお宅に届けてほしい。」との申し出をいただきました。
「どなたかのお役に立ちたい。」と考えているときに、手を差し伸べてくださる人がいる。そのようなときにお取り次ぎをすることが僧侶の役割なのでしょう。
名古屋の若宮大通りのイチョウ並木の下を歩いております。
晩秋の名がぴったりの風景です。
明日予定をしていた高野山へのお参りは、お弔いがあるので延期になりました。「すなわち近し。」と近いところにある仏心を大切にしたいところです。
大源寺だよりは文字数が多いとのご意見をいただきます。
活動内容を見て取ることができるようにと、年中行事の折に檀家の奥さま方が調理してくださる御斎(おとき 昼食のお膳)の写真を掲載することになりました。
法を説くばかりでなく、皆さまにお支えいただくこともお伝えしていきます。
先日、運転免許証の更新に行き、10年ぶりにゴールド免許になりました。
講習場で視力検査をしました。「お兄さん、メガネかけてるけど視力いいね。メガネいらないんじゃないの。」と職員が話しかけてきます。「これは、伊達メガネですよ。」と冗談を言っていました。
「私の目は一つしかない。私を見る目は無数にある。」とはお釈迦さまのお言葉であるようです。
視野が狭くなりやすいものですから、メガネを離すことは難しいのです。
曾祖父が臨済宗妙心寺派の布教師を拝命したときの、適任証(免状)を本堂に掲示しております。
日付を見ると、大正2(1913)年5月24日と書かれています。祖父が1歳の時ですから、赤ちゃんと奥さんに留守番をさせて京都の妙心寺にいたようです。
裕福ではないお寺をどう経営していくのかを、曾祖父も試行錯誤していたようです。