母が活けたアジサイです。
昨日誕生日でしたが、大源寺だより第6号のチェックや来客のお相手と、忙しい一日を過ごしたようです。
月: 2017年6月
教化
セミナーマニアと名付けられるほど、あちこちの研修会を行くようになったのは、6年前に参加した小堀仏壇と寺院デザイン共同開催の「寺院運営セミナー」に参加することが始めです。
当時は、知人もなく、納骨堂や永代供養墓ということも知らないものでした。「頑張りなさいよ。」と励まされました。
今日のセミナーでは、住職塾でご縁のできた全国各地の和尚さまと談笑しておりました。
寺離れの原因を、少子高齢化や過疎などの外的要因にすることがありました。他に考えられることとして、仏教の教えが行き渡っていないことを感じておりましたが、深く考えていませんでした。
今日の講義では、教化(きょうけ)と布教とは同じようなものですが、分けて考えることが糸口であることを学びました。
端的に言って、教化は、「世間をよいものにしていこうと、信仰の浅い人へ教えを説いて行くこと。」で、布教は、「信仰を深めていただくために、教えを説いていくこと。」であるようです。
檀家さんに向けて、当たり前と考えて説いていたことでも、実はこちらの思い違いであったことは、よくありました。
仏道の教えに救われた経験をもとに、お寺のことを知らない人に向けて、どう教化していくのかを問われていることを感じておりました。
追記 Facebookを始めるようになったのは、6年前のこのセミナーで、小堀仏壇の故小堀進社長がFacebookのことに触れられたからでした。故小堀進さんへ感謝を申し上げて、ご冥福をお祈りいたします。
一無位の真人
月に一度の法話の会である无名会に参加してきました。
木村太邦老師の臨済録の講義を聴いてきました。
臨済禅師が「一無位の真人(いちむいのしんにん)」のことを説かれたシーンです。
「人間の身体にも、一無位の真人と言って、混じり気のない純粋な心を持つ者がいる。」と説かれます。そうすると修行者が、「そのような者はどこにいるのですか。」と尋ねると、臨済禅師は胸ぐらを掴んで修行者を罵倒します。
パワハラとも思えるやり取りの中に、「自分で感じ取るものである。人に聴く前に実践してみなさい。」との心が伝わってきます。
「純粋な心を感じ取る。」とは、わかっているようで説明となると難しいものです。帰り際、地下鉄のホームのポスターに「目覚めよ。私の○○○○○」というフレーズを見つけました。自分の中にあるものを目覚めさせることには、共通点があるのではと考えておりました。
大源寺だより第6号の校正がほぼ終わり、ホッとしております。
10年前は原稿を書くこともおぼつかないものでした。皆さまのおかげで、書き続けることができます。
昨年から読者コラム欄を設けましたが、寄稿いただき感謝しております。
維摩居士のことを取り上げたのですが、ちょうどNHKテレビで維摩経の講義が放映されています。不思議な縁に恵まれております。
今朝の地震には、びっくりしました。本堂は揺れましたが、被害はなくホッとしております。
雨水を補給したからか、アジサイが多彩な色を出しております。
最終チェック
大源寺だより第6号のゲラ刷りが出来上がってきました。
文字数が多いことを反省しつつ、最終チェックをしております。
羅漢さん
本堂の隅から出てきた十六羅漢の掛け軸を広げて、お顔と名前を覚えようとしております。
アジサイ
アジサイが咲いています。何色あるのかと数えておりました。
掲示板のポスターを貼り替えました。
「やまない雨はない。」とありますが、岐阜県西濃地方は、一週間ほど雨が降っていません。
雨模様と晴れ模様の相互の働きあっての、自然の成り立ちであるようです。
法施(ほっせ)
大源寺だより第6号の原稿作成が完了して、ホッとしておりました。
ご近所の方がお見えになって、「印刷代の足しにしてください。」と浄財をくださり、恐縮しております。
今後、校正を経て推敲を重ねて発行へつなげていく流れですが、中途半端なことはできません。
僧侶が仏法を説く「法施(ほっせ)」をして、世間の方から金銭や食材をいただく「財施(ざいせ)」によってお寺が成り立っていくのが、お寺の元々のあり方なのでしょうか。