地区花園大会

9月25日(金)、大源寺本堂にて「地区花園大会」を開催いたします。

今回の講師には、福岡市より武久寛海和尚さまをお迎えいたします。

武久和尚さまには、今から約20年前、妙心寺で行われた高等布教講習会で大変お世話になりました。

当時、布教について学ばせていただいたご縁が、20年という歳月を経て再びつながり、今回、大源寺でお話をいただけることになりました。

長い年月が経っても、仏縁というものは不思議なところでつながっているものだと、あらためて感じています。

今回のテーマは、

「少水の魚に楽しみあり」
― 今を生き、ありがたく ―

日々の暮らしの中では、つい足りないものに目が向きがちです。しかし、限られた時間、限られたご縁の中にも、気づけばたくさんの「ありがたい」があります。

武久和尚さまのお話を通して、仏さまの教えに耳を傾け、今を生きることの尊さを皆さまと一緒に味わえればと思います。

日時 令和8年9月25日(金)
開場 12時30分/開会 13時
会場 大源寺 本堂
講師 武久寛海和尚さま

檀家さんに限らず、どなたでもご参加いただけます。

20年前にいただいたご縁を、今度は大源寺にお参りくださる皆さまへとつなぐ一日になれば幸いです。

皆さまのお越しを、心よりお待ちしております。

雨にも夏の暑さにも負けず

テレビをつけると、NHK Eテレで宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が取り上げられていました。

『銀河鉄道の夜』は、子どもの頃から何度も触れてきた物語です。
そして20年ほど前には、松原哲明和尚さまから、宮沢賢治についてよくお聴きしたことを思い出しました。

宮沢賢治の言葉に、

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

というものがあります。

「みんなが幸せにならないうちは、自分だけの幸せはない。」

そんな意味として、今も私の心に深く突き刺さっています。

番組の最後には「南無妙法蓮華経」と書かれたものが映し出されました。一方、賢治の生家は浄土真宗の信仰を受け継ぐ家でした。賢治はそこから法華経への強い信仰を持つようになり、その信仰は『銀河鉄道の夜』をはじめ、彼の作品や生き方の根底にも流れているように感じます。

「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ――」

人のために動き、農民とともに働き、自分のことは後にする。

馬車馬のように働く、という言葉がありますが、宮沢賢治の生涯を見ていると、まさにそんなひたむきさを感じます。

テレビを何気なくつけただけなのに、20年前に松原哲明和尚さまから聴いたお話まで、ふっと蘇ってきました。

自分だけが幸せになるのではなく、周りの人とともに幸せになる。

僧侶として生きる私にとっても、改めて胸に刻んでおきたい言葉です。

雨にも負けず、夏の暑さにも負けず。
私もまた、今日できることを一つずつ。

お参りできる喜び

嫁いできて50年になる母。

お寺の年中行事といえば、母はいつも台所で火の番をしていました。

施餓鬼、お盆、大般若、彼岸……。
本堂では皆さんがお経を唱え、お参りをしていても、母は台所で食事の支度やお茶の準備、来客のお世話。

「寺に住んでいるのだから、いつでもお参りできる」と思われるかもしれません。

けれど、実際には寺を支える側の人ほど、ゆっくり本堂に座ってお参りする機会がなかったのだと思います。

今日、母がテレビの前に座って、YouTubeに残してある法要のアーカイブ動画を見ていました。

その後ろ姿を見ながら、なんとも言えない気持ちになりました。

50年間、母は本堂の外から寺を支えてきました。
お経を読む人がいて、お参りする人がいる。その陰には、ご飯を炊く人、火を守る人、片付ける人がいる。

そういう人たちのおかげで、お寺の行事は続いてきたのでしょう。

時代が変わって、今はYouTubeで後から法要を見ることもできます。

便利になったというだけではなく、これまで「支える側」だった人にも、改めてお参りする時間が戻ってきたように感じます。

母にはこれから、寺のために働く時間だけではなく、
一人の人として、ゆっくり手を合わせる時間も持ってほしい。

テレビを見つめる母の後ろ姿を見ながら、そんなことを思った夜でした。

施餓鬼会 動画

昨日、大源寺にて施餓鬼会を厳修いたしました。

厳しい暑さの中にもかかわらず、ご縁ある皆様がお参りくださり、本堂で静かに手を合わせてくださいました。心より御礼申し上げます。

今回の動画は、私のiPhoneで撮影した法要の様子です。専門的な撮影ではありませんが、当日の読経の響きや本堂の空気、お参りくださった皆様の祈りの姿を、少しでも残しておきたいと思いました。

施餓鬼会は、ご先祖様だけでなく、縁の有無を問わず、あらゆる御霊に施しをする法要です。同時に、私たち自身の「惜しむ心」や「むさぼる心」を見つめ直す仏道の行でもあります。

住職は法要の間、次第を間違えず、滞りなく勤めることに心を配ります。準備の段階から考えることも多く、当日を迎えるまでは、なかなか気が休まりません。

それでも、皆様の唱えるお経が本堂に重なり、静かに手を合わせる姿を拝見すると、「今年もこの法要を勤めることができてよかった」と、ようやく安堵いたします。

法要を支えてくださった皆様、お参りくださった皆様、そして長年にわたり大源寺の施餓鬼会を守り伝えてくださった方々に、あらためて感謝申し上げます。

動画を通して、当日の祈りのひとときを感じていただけましたら幸いです。

合掌

習字の稽古

今日は習字のお稽古へ。

昨日の施餓鬼会の疲れがまだ残っていたのか、最初のうちはどうにも筆が思うように動きませんでした。

「今日は調子が悪いかな」と思いながら、それでも一枚、また一枚と書いているうちに、少しずつ筆が馴染んできます。

不思議なもので、頭で「上手に書こう」と考えている時よりも、余計な力が抜けてきた頃の方が、線にも勢いが出てきます。

同じ文字を書いていても、一枚目と二枚目では線の太さも勢いも随分違います。写真を見比べると、後の一枚の方が筆が走り始めた感じがします。

書というものは、その日の心や身体の状態まで、そのまま紙に出てしまうものなのでしょう。

昨日は施餓鬼会。今日は習字。

人前でお経を読むことも、筆を持って一字を書くことも、結局は日々の積み重ねです。

疲れていても、まず筆を持ってみる。
うまくいかなくても、もう一枚書いてみる。

そうしているうちに、少しずつ自分の調子が戻ってくる。

習字のお稽古をしながら、「調子が出ない日にも、続けることが稽古なのだな」と、あらためて感じた午後でした。

まだまだ修行です。

施餓鬼を終えて 動画での報告

令和8年8月7日、今年の施餓鬼会を無事に終えることができました。

終わってみれば、まず出てくる言葉は「今年も無事に終わって、よかった」です。

住職にとって年中行事は、当日だけのものではありません。

案内を出し、卒塔婆を書き、お供えを整え、本堂を準備し、当日の段取りを考える。

「あれを忘れていないか」
「皆さんに気持ちよくお参りしていただけるだろうか」
「今年もきちんと勤められるだろうか」

そんなことを考えながら迎えるのが、毎年の施餓鬼会です。

ですから最後のお経が終わり、皆様をお見送りした後の静かな本堂に立つと、何ともいえない安堵があります。

「今年も終わったなあ」と。

そして同時に、「今年も皆さんがお参りしてくださった」というありがたさを感じます。

お寺の行事は、住職一人では成り立ちません。

お参りくださる方があり、お供えを届けてくださる方があり、準備を手伝ってくださる方がある。

そうした一つ一つのご縁が集まって、初めて一つの法要になります。

正直に言えば、時代も変わり、お寺を取り巻く環境もずいぶん変わりました。

「昔からやっているから、今年もやる」

それだけでは、これから先は続いていかないように思います。

かといって、時代に合わせるという理由だけで、何でも簡単にしてしまえばよいとも思いません。

大源寺では、お盆のお勤めも施餓鬼会も、ある程度しっかり時間をかけてお経を読みます。

効率だけを考えれば、もっと短くすることもできるでしょう。

しかし、年に一度くらいは本堂に座り、ゆっくりお経を聞き、亡き人を思い、静かに手を合わせる時間があってもよいのではないでしょうか。

私自身、完璧な住職ではありません。

「あそこはもっとこうすればよかった」
「説明が足りなかったかな」
「来年は少し変えてみようか」

法要が終われば、そんな反省もいくつも出てきます。

それでも、法鼓が響き、お経の声が本堂に広がり、皆様が手を合わせておられる姿を見ると、

「この風景は残していきたいな」

と思います。

お寺を守るということは、建物を残すことだけではないのでしょう。

人が集まり、亡き人を思い、お経を唱え、そしてまた日常へ帰っていく。

そんな「場」を次の世代へ手渡していくことなのかもしれません。

今年も暑い中、ご参拝いただきました皆様、本当にありがとうございました。

大きな事故もなく、今年の施餓鬼会を無事に終えられたことに、今はただ安堵しています。

少し休んだら、また次のお勤めです。

こうして一年一年、できることを丁寧に続けていきたいと思います。

合掌

各務原市での葬儀

各務原市で葬儀を終え、ご遺族の皆様とともに火葬場へ向かいました。

式では、少し引導法語が長くなってしまったかもしれません。それでも、ご遺族が静かに耳を傾けてくださる姿を見て、「故人を送り出す最後の言葉」として、心を込めてお伝えすることができました。

火葬場までは車でわずか5分ほどの距離です。

ふと思い返すと、21年前、初めてこの地でご縁をいただいた頃は道に迷い、火葬の時間に遅れそうになって慌てたことがありました。あの頃は土地勘もなく、不安な気持ちで車を走らせていたことを懐かしく思い出します。

今日は迷うことなく、穏やかな気持ちで到着することができました。

仏教では、人は亡くなってから四十九日までを「中陰(ちゅういん)」の期間といいます。人生でも道に迷うことがあるように、この中陰の旅路も迷いなく歩んでいただきたい──そんな願いを込めて読経し、ご供養をお勤めしています。

亡き方が安心して仏の世界へ歩まれるよう祈り、ご遺族の心にも少しずつ安らぎが訪れるよう願うこと。それが、お寺に託された大切な役目なのだと、あらためて感じた一日でした。

施餓鬼会のご報告

本日、大源寺にて施餓鬼会を厳修いたしました。

大変暑い一日となりましたが、ご縁ある皆様がお参りくださいました。暑い中、足を運んでくださったことに、心より御礼ます。

午前十一時、法鼓を合図に出頭。ご随喜いただいた和尚様方とともに、大悲咒、開甘露門、世尊偈をお詠みいたしました。

施餓鬼は、私たちのご先祖さまだけを供養する法要ではありません。「餓鬼」とは、満たされることなく求め続ける苦しみの姿でもあります。その苦しみにあるすべてのものへ、分け隔てなく食べ物や功徳を施していく。そこには仏教の大切な「施す心」が表されています。

お供えいただいたお米やお菓子、果物などもお供えし、一座の皆様とともに手を合わせました。

毎年同じように見えるお盆、同じように見える施餓鬼ですが、今年お参りできたことは決して当たり前ではありません。お参りくださる方があり、お手伝いくださる方があり、和尚様方にご随喜いただき、一つの法要が成り立っています。

こうして皆様と同じ本堂でお経を唱え、ご先祖さまを思うひとときを持てたことを、ありがたく感じています。

暑さ厳しき折です。どうぞ皆様、ご自愛のうえお盆をお迎えください。

本日お参りいただきました皆様、ご随喜いただきました和尚様方、そして準備にお力添えくださった皆様、本当にありがとうございました。

合掌

ゆっくり唱えるお経

大本山妙心寺の月刊誌「花園」にある『般若心経の思い出』を拝読し、般若心経は「短いお経」ではなく、人と人とのご縁を結び、人生を支えるお経であることを改めて感じました。

妙心寺派教学部長の岩浅慎龍和尚さまは、幼い頃におじいさんと一緒に棚経に回った思い出を振り返りながら、当時は「早く終わればいい」と思っていた自分が、年月を経て、その時間の尊さに気づいていく過程を率直に綴られています。

特に印象に残ったのは、「もっと短くできないか」と考えていた気持ちが、やがて「一緒に般若心経を読むことそのものが楽しみであり、生きる喜びだった」と受け止め直されていくところです。人は年齢や立場が変わることで、同じ出来事でも全く違った意味を見いだせるのだと感じました。

私自身も、お盆の棚経では約20分かけて読経をしています。多くのお寺では大悲呪と開甘露門を合わせて3〜5分ほどで勤められることもありますが、大源寺では檀家の皆様とゆっくり般若心経を唱和します。そのため、多くの檀家さんが自然に般若心経を唱えられるようになりました。

お経は、お坊さんだけが読むものではありません。皆で声を合わせることで、ご先祖さまに心を向け、自分自身の心も静かに整えていく時間になります。

岩浅和尚さまの文章を読みながら、「時間を短くすることが豊かさではない」ということを改めて教えられました。効率が求められる時代だからこそ、お盆には少しだけ歩みを緩め、ご先祖さまと向き合い、家族とともに般若心経を唱える時間を大切にしたいと思います。

「ゆっくり唱えるお経」には、忙しい日常では得られない、心の安らぎと仏さまとのご縁がある――そのことを改めて実感させていただいた一篇でした。

合掌

ご長老のお客さま

今日、ご近所にお住まいの80代の男性が、施餓鬼のお供えとしてお米を届けてくださいました。

「どうぞお使いください。」

その何気ない一言に、温かいお気持ちが込められているようで、本当にありがたく感じました。

この方は浄土真宗のご門徒さんです。それにもかかわらず、私のような若輩の僧侶を気にかけてくださることに、恐縮するとともに、大きな励ましをいただきました。

寺を続けていると、長年のお付き合いのある檀家さんとのご縁も大切です。一方で、長い年月の中で「毎年の決まりごとだから」と、義務を果たすことが目的になってしまうこともあります。

また、新しいご縁には慎重になり、「今までどおり」が安心だというお気持ちもよく分かります。

しかし、お寺が「立派なことを話して、儀礼が滞りなく終わればそれで良い」という場になってしまえば、そこから新しい命は育ちません。

人と人との温かな心の交流があってこそ、お寺は生き続けるものだと思っています。

今日いただいた一袋のお米は、単なる食料ではありません。

「頑張ってください。」

そんな無言の応援をいただいたような気がしました。

人生の先輩であるご長老からのご厚意を胸に、これからも宗派を超え、人とのご縁を大切にしながら、一つひとつのお弔いと法要を丁寧に勤めてまいりたいと思います。

合掌