住職になった頃は、「どうしてこんなに木があるのか。」とぼやいたものです。
20年経って、こういう形になるとは予想しませんでした。祖母が「私が腰が曲がっても、掃除してきた甲斐があったでしょう。」と笑っているようです。
初めての試みで身震いしております。
https://daigenji-jumokusou.jp/
「大源寺 樹木葬」でご検索ください。
住職になった頃は、「どうしてこんなに木があるのか。」とぼやいたものです。
20年経って、こういう形になるとは予想しませんでした。祖母が「私が腰が曲がっても、掃除してきた甲斐があったでしょう。」と笑っているようです。
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「生きてこの 青葉若葉の 日の光」という句は、静岡県三島市の龍澤寺の住職を勤められた中川宋淵老師が詠まれたものです。
あちこちからお声がかかるのはありがたいのですが、今日は休養しています。青葉若葉に日の光が当たる光景を目にすると、エネルギーが沸き起こるようです。
この句が詠まれたのは、中川老師が退院された折であるようです。お寺の庭の樹木は、心身をたくましくするようです。
外出を控えておりますが、多くのお客さまがおいでになります。
本堂での年忌法要に続いて地元の仏教会の総会があり、気の抜けない一日でした。
仏教会では、「マンネリ化しがちな会を活性化させてほしい。」とのご意見があり引き締まる思いでした。
先人の教えをどう現代に活かしていくのか問われています。
消防署からの指導により、新たに4本も消火器を設置しました。
何事も起こらないことが一番ですが、起きたとしても大事にならないことが大切です。
空は晴れ渡っています。
午前中は本堂で年忌法要がありました。喉がかれて声が出しづらい状態でした。
近くのグランドで野球の試合が行われていて、応援団が必死に声をあげています。その声援に負けないように、必死にお経をあげていました。
この庭の名をどうしようかと考えていました。
臨済録にある「曠然に自適す。」から「曠然苑(こうねんえん)」と名付けました。迷いや煩悩をコントロールすることができれば、大らかに生きることができるという願いを込めてのものです。
先日、神戸市の祥福寺にお伺いしたおり、木村太邦老師から、「自由とは自らによることである。自らを確立したところに、大らかに生きる自由を得られる。」というお話しをお聴きしました。
私はまだまだ自由を得ることができず、迷うことがあります。「自分の身体を第一に考えなさい。」と言われたことにハッとしたものです。
自由を得てゆったりとする境地「曠然」へたどり着くには永遠の目的であるのです。
祥福寺で「曠然室老大師」と書かれていました。どなたのことかとお尋ねすると、木村太邦老師の室号であることを聴いて驚いていました。
本堂がライトアップされているかのようです。
近くにスポーツセンターがあり、野球の試合が行われているところです。
借景ではなく光を借りる「借光」です。
門の前を広角度で撮影してみました。
30年前は、鬱蒼と木が生い茂っていて、私と年の近い小学生の遊び場でした。
私は仲間の輪に入ることなく、屋内で自分の好きな歴史小説を読んでいたものです。
お寺を開放するには、住職が先陣を切らないことには始まらないのです。
夕暮れ時に、樹木へ水まきをしています。
これまで咲くことのなかった花が咲いています。カエルを起こしたようで、にらまれています。
のんびりした空気が住職を励まします。
月に一度の法話を聞く「无名会」の世話人一同で、講師に名古屋までお越しいただく、木村太邦老師へのご挨拶に、神戸市の祥福寺までお伺いさせていただきました。
門を入ると、山田無文老師の書かれた石碑がありました。僧堂に入る前に、大学の同級生から、山田無文老師の功績を書かれた冊子を借りて読んだことを思い出しました。
本堂へ上がって、山田無文老師の木像の前でお経をあげて、境内を拝観させていただきました。
拝観した後、書院でご馳走を頂戴して恐縮しておりました。
山田無文老師は、最初は法律家を目指されて、早稲田高校に進まれたようです。及ばずながら、私も法律家を目指したこともありました。「法律は人を裁くものであるが、仏法は人に慈悲の心をもたらすものである。」と説かれたようです。
法律家を目指して断念することに葛藤がありました。多くの人に仏法を説かれ、今なお慕われる山田無文老師のお心が伝わってくるようでした。