横田南嶺老師の日曜説教をお聴きしていました。
禅においては、自分の心の中に清らかな心が宿っていることを信じる「信心」というものを大切なします。
心は手のようなものであり、ここの働きがなければ、清らかな心に気づくことはできません。
臨済禅師は、自信という言葉を「自らを信じる。」ととらえて、「自らを信じることができなければ病である。」と説かれました、
私は自らを信じることができずに、大源寺だよりの原稿を書くことが滞っています。しかし、自らを信じていれば、書き上げられると思うと、自信が湧いてくるようです。
横田老師は、「すばらしい宝の山にいて、気づくことができない。」として、最近のご自身の体験を語られました。
私は「こんな田舎の小さな寺にいて、誰もこない。」とぼやいていたものです。最近になって、毎日のようにお客さまがおいでになり、うちのお寺との縁を深めたいとおっしゃるのです。自分で宝の山に気づくことがができずにいたものです。
横田老師にお会いしたとき、「高等布教講習会で2回で適任証を受けられなかったくらいで諦めてはいけない。」と自信を持つように指導されたことを思い出しました。
日曜説教をお聴きするたびに、自分の心に自信を取り戻すような思いが湧いてきます。
以下より引用させていただきました。
http://www.engakuji.or.jp/blog/