お寺の屋根には、数え切れないほどの瓦が並べられています。
禅の問答には、瓦にちなんだ因縁話があります。
8世紀の中国の唐の時代に、南嶽懐譲という和尚さまがおられました。
南嶽禅師の多くのお弟子さんのなかに、馬祖道一という坐禅を熱心に行なう修行僧がいました。
南嶽禅師は、馬祖に問いかけます。「君は何のために坐禅をするのか。」
馬祖は、「仏になるためです。」と答えます。
南嶽禅師は、落ちていた瓦を持ってきて、磨き始めます。馬祖は師に何をしているのかと尋ねます。
南嶽禅師は、「瓦を磨いて鏡にしようと考えている。」と答えます。
馬祖は「鏡になどできません。」と答えます。
南嶽禅師は、「では聞く。坐禅をして仏になることができるのか。牛が引いている車が動かなくなったとき、牛を打つのか車を打つのか。」と尋ねます。馬祖は、やっと師の言葉の意味を察することができました。
「坐禅をしている。お経を読んでいる。庭掃除をしている。」など日頃の行ないを継続するうちに、ふっと見えてくるものがあります。何かを得ようとして行なうのではなく、無心に継続することこそが仏道であると説かれたのです。
何かの目標に向けて頑張っていても成果を上げることができないことはよくあります。継続するうちに、ふっと見えてくることがあります。無心の中から仏道を積み重ねることを、南嶽懐譲禅師は説かれたのです。