朝の掃除をしております。日天掃除と言います。
穏やかな空気のもと、また一つ花が開いております。
朝の掃除をしております。日天掃除と言います。
穏やかな空気のもと、また一つ花が開いております。
お通夜のためセレモニーホールへ向かい、式の前に仕度をしておりました。
本棚を見るとお経の本が並んでいます。「他の宗派のものばかりで、臨済宗の経本はない。」と思いきや、隅に臨済宗の経本を見つけました。担当職員に参列者にお配りするようにお願いしました。
式の冒頭に、「ゆっくりお経を読みますから、ご唱和ください。」とお話しして、お経をあげさせていただきました。
経本をご覧いただいて、故人へのお弔いと同時に信仰を深めてくださればと考えておりました。
そのうち、臨済宗の経本が本棚の目の届くところに置かれることを願っております。
夕焼け空がきれいで、写真を撮りました。午後7時頃の風景です。
25年ほど前のこの時季、祖母が夕暮れ時まで畑仕事をしておりました。私が迎えに行っても、なかなか手を止めませんでした。
そんな思い出を振り返ると、「念ずれば花開く。」という詩が思い浮かんできます。「苦しいとき、母がいつも口にしていた。(中略)そうして不思議とひとつひとつ開いていった。」という詩です。
「何でこんな手間取ることをする。」と思っていたことを、私が行ない、手間の繰り返しから、成果の兆しが見えてくるのではないかと感じております。
庭の草木が、青々と生い茂っております。
住職が気ぜわしくしているのとは対照的に、どっしりと地に根を張ってそびえています。
横田南嶺老師が、日曜説教で、坂村真民先生の「一本の道を」という詩が紹介されていました。
「木や草や人間とどこが違うだろうか。みんな同じなのだ。(中略) 木に学べ 草に習えと 私は自分に言い聞かせ、今日も一本の道を歩いて行く。」と、木や草の姿から、歩む道を感じ取ることを説かれていました。
お寺の中の新緑が茂り、周りの田んぼの瑞穂はしなやかに育っています。そんな姿を毎日見て、一本の道を歩いております。
次の「大源寺だより」に戒名を取り上げようと考えております。
理解を深めようと、宗教学者の島田裕巳先生の本を拝読しました。
世間で誤解があるのは、「亡くなってあの世へ行って、長い戒名ほどいい所に住むことができる。」という解釈があることです。
戒名とは、元は仏弟子になったときに、師匠からもらう二文字の名前です。お亡くなりになったときに「〇〇院〇〇〇〇居士」というような形式があるのは、仏教を信仰する国では日本特有のことであるのです。
信士 信女 居士 大姉 院号というのは、本来は仏教への帰依の深さやお寺への貢献の深さで決めるものです。
勤務評定のように、貢献度を数値化することはできません。そのような背景から院号料や戒名料というものが生じたようです。
私はお通夜で、お付けした戒名の意味を説明します。それまでのご縁が深いほど、思い入れ深くお話しできます。
今後、院号や戒名へのお布施のことが問われることになるでしょう。戒名とは、お寺とのご縁の深い故人へのおくり名としてお付けするものであり、グリーン車やファーストクラスの席を高価格でお売りするものではないことを説明していこうと考えております。
毎日のように門前を通りすぎるのは、高校時代からです。これまで境内に入ってお参りすることはありませんでした。
大垣駅から北に2キロくらいにある、浄土宗の松濤寺にお参りさせていただきました。
東南アジアの仏塔のような本堂は壮観でした。お庭がよく手入れされていました。
門前の掲示板に、「こだわり捨てて 心のびやか。」とありました。宗派が異なるというこだわりをなくせば、心のびやかに見えてくるものがあるようです。
名古屋まで出張してお参りしてきました。
乗り換えの駅に、知多四国の札所巡りのポスターがありました。知人が住職を勤めるお寺も札所に名を連ねていました。
行く先々で、仏縁を感じております。
未来の住職塾に入って、4年経ちます。
宗派を超えた多くの出会いがあり、これまでのご縁を手繰り寄せることができましたが、お寺の将来への安全性を確保することができたかと言えば、答えはノーです。
一朝一夕に解決することのできないこともありますが、お寺をまとめる住職の着眼点にもよります。
今のお寺の運営方針を振り返り、軌道修正しようと「安心のお寺を考える。」という勉強会に参加してきました。
住職としてお堂を修復して、お寺の新聞を発行して、ブログを毎日更新していても、自己満足のままでは、何の功徳もありません。
煩悩の数と同じ108のチェック項目を見て、グループで話して、弱みではなく強みを探し当てる学びを得させていただきました。
電車で向かうことができるところには、法衣のままでも電車を使います。
車の運転のほうが、荷物の持ち運びには手間取らないのですが、渋滞などの影響のないルートを使います。
雲水(修行僧)の頃、通勤ラッシュの時間帯に、綿の雲水衣に下駄を履いた状態で、犬山から名古屋へ向かったことがあります。
乗り換えでホームで待っていた時に、知らない人から、「お賽銭です。」と硬貨をいただいたことがあります。そのような思い出があるから、電車での移動にこだわるのかもしれません。
お墓の閉眼のお勤めを依頼されております。
幼い頃に、祖父や父の石塔が建つのを見ておりましたから、「墓じまい」と聞くと寂しい思いがします。
一昨日のご依頼で、ご親族が遠方からいらっしゃることに合わせてのことです。
私は一期一会の心のもと、お参りさせていただきます。