祖母の祥月命日ということで、お墓の前までお参りに行ってきました。
墓前に行くまでは、お小言を言われそうな気がして足取りが重くなります。お墓の前に立つと、ただ静かな空気の中にいるようでした。「もうあんたに任せたよ。」というメッセージが伝わってくるようでした。
5年前の祖母が危篤のとき、お寺へ戻る途中の田んぼの稲穂が元気なくたたずむように見えました。今日は、生き生きと瑞穂がそびえているように見えたのは不思議なものです。
祖母の祥月命日ということで、お墓の前までお参りに行ってきました。
墓前に行くまでは、お小言を言われそうな気がして足取りが重くなります。お墓の前に立つと、ただ静かな空気の中にいるようでした。「もうあんたに任せたよ。」というメッセージが伝わってくるようでした。
5年前の祖母が危篤のとき、お寺へ戻る途中の田んぼの稲穂が元気なくたたずむように見えました。今日は、生き生きと瑞穂がそびえているように見えたのは不思議なものです。
八百津町からの帰り、川辺町を通りました。住職塾でご一緒した所さんのお寺にお参りさせていただきました。
初めて伺うところは、本堂に上がることはためらいます。「どなたさまもご自由にお参りください。」という掲示があり、安心してお参りすることができました。
庫裡のほうへご挨拶に行きました。坊守さん(奥さん)が気さくに話してくださいました。
お寺の新聞を交換させていただきました。
実は住職塾に受講する前から、こちらのお寺とは縁深いのです。うちのお寺の近くの浄土真宗のお寺の坊守さんは、こちらのお寺のお生まれなのです。
身近なところにあるご縁を深めて、仏縁を広げていきたいところです。
今月末に遠忌でお伺いする、八百津町の大仙寺までお参りしてきました。
山の中の大きなお寺でした。「ゆっくりゆっくり」という掲示板に諭されております。
お寺のすぐ近所のお宅の年忌法要に行ってきました。
創建当初からの檀家さんであり、曾祖父の実家でもあります。
ご親戚の中の最高齢の方とお話ししておりました。昭和15年に今の本堂が新築されたときに立ち会われたようです。
一方で平成生まれのヤング世代に囲まれて、スマホを駆使する若いエネルギーを感じておりました。
二十三回忌は、故人を偲び今を生きる我々がどう生きるのかを問うことが大切であるとお話ししました。時の流れをひしひし感じております。
枯池を埋め立てて、平らにしたところです。
思いのほか広くて快適な空間になりました。
枯池なり敷居があると、狭く感じるものです。まるで錯覚していたかのようです。
庭の枯池を埋める工事をしております。永代供養墓を建てるために始めました。
幼い頃は、隠れんぼをしていました。こうして模様替えをすることに、寂しい気もあります。
母の活けたお花です。「雨上がり」というお題であるようです。
長く突き抜けるものは、傘をイメージしているようです。
雨が降っているところですが、明日には上がることでしょう。傘がしぼむところを思う浮かべております。
妙心寺へのお参りの後、京都御所まで行きました。
御所へお伺いすることを参内(さんだい)すると言うようです。厳粛な気持ちで拝観するはずでしたが、ご一緒した陽気なおじさんのお相手をしながら、クギを使わない建築を隅々まで拝見しました。
ご一緒した方は、亡き父を中学生の頃からご存知で、父は跡取り息子の重圧もあって、とっつきにくいキャラクターであったようです。御所内をご一緒して、古人の足跡をたどるうちに、「あんたは面白い人やね。」とのお言葉をいただきました。
大源寺だよりをお渡しすると、喜んで受け取ってくださいました。古い縁を土台に、新しい仏縁を形成することができるのはありがたいことです。
中秋のお月さまは、本堂や鐘楼の真上から一面を照らしています。
地元の教区の団体参拝で、本山の妙心寺へ行ってきました。
何度もお参りするのですが、毎回新たな気づきを得ています。
微妙殿での法要の後、管長さまが法話をされました。同郷を懐かしむように、「車の運転が得意でも、農作業が苦手な人がいる。お互い助け合って生きていかなければならない。おかげさまの心が大切なのです。」と説かれました。
斎座(昼食)の後、法縁の深い塔頭のお寺にご挨拶に行きました。
帰路に着くおり、宗務総長と総務部長にお会いしてご挨拶させていただきました。
何百年もの仏縁を継承して行くには、おかげさまの心を欠かすことなく日頃の行いを続いていくことが大切なのです。