今週は雨空が長かったのですが、空が晴れるのに合わせるかのように、工事中の鐘楼の四隅に隅木が取り付けられました。重い屋根を四方から支えるようです。
仏教に、四衆接化(ししゅせっけ)という言葉があります。「比丘(男性僧侶)、比丘尼(女性僧侶)、優婆塞(男性信者)、優婆夷(女性信者)」が共に手を取りあって教団を支えていく。」ということです。多くの皆さまに支えられているありがたさを感じるものです。
今週は雨空が長かったのですが、空が晴れるのに合わせるかのように、工事中の鐘楼の四隅に隅木が取り付けられました。重い屋根を四方から支えるようです。
仏教に、四衆接化(ししゅせっけ)という言葉があります。「比丘(男性僧侶)、比丘尼(女性僧侶)、優婆塞(男性信者)、優婆夷(女性信者)」が共に手を取りあって教団を支えていく。」ということです。多くの皆さまに支えられているありがたさを感じるものです。
日本の仏教には59の宗派があると言いますが、宗派を超えた交流はあまりありませんでした。
教義や儀礼の違いが表面化することを避けたのかもしれません。
住職が3年前からお世話になっている「未来の住職塾」で絆のできたお坊さんたちが九州に乗り込み、お寺を見学して、1人10分の法話をするという試みが、ちょうど1年前の今日行なわれました。
写真は、大分市の大法輪寺大分別院で住職がお話しをしている場面です。
1年前は宗派を超えた交流をして、本日は20年前に修行の同期のお坊さんと仕事をするとは不思議な因縁です。
熊本地震の被災地の支援から帰って来られた方からお聞きしました。
被災地では、お寺が避難場所として場所を提供されておられるところもあるようです。
大源寺のお寺は、広いものの地域の皆さまのお役に立てているかと言えば、あまり当てはまりません。
戦時中、大垣付近に空襲があったとき、防空壕としての築山に、うちの家族のみが入っていたようです。
災害時に境内地をご利用いただくことも、社会における貢献であると考えております。
臨済宗の葬儀では、導師が引導のときに「喝」と大きな声で叫びます。
住職が初めて葬儀をさせていただいたとき、マイクに向けて大きな声で叫んだものですから、参列者がみんな震え上がってしまうということもありました。
「人に説教をするために、喝を言い渡す。」のではなく、「悟りの道へと導くための喝。」なのです。
そのためには、導師を勤める和尚が、清浄な心で他人と向き合っていることが大切です。
一方的な喝ではなく、お互いさまの喝でありたいものです。
名古屋市の栄にある、臨済宗妙心寺派の政秀寺で、河野太通老師の「十牛図」の講義を聴聞してきました。
こちらに出てくる牛とは、自分自身の仏心すなわち悟りの心です。
迷いによって自分自身の方向性を見失ってしまった。先人の足跡をたどるなどして、やっとのこと、自分の軸の象徴である牛を捕らえことができた。その後、どう牛を飼い慣らすかということです。
「鼻索強くひいて、擬議をいれざれ。」というくだりで、自分自身に生じてくる迷いの綱を強く引いていくことの大切さを説かれました。
修行をしてお寺の住職になったとしても、また迷いというものが生じてきます。迷いを持ったままの住職の説法を聴く人などいません。
禅の教えでは、「聖胎長養」すなわち「悟りの後の修行」というものが必要とされます。
京都の大徳寺の開山の興禅大燈国師 宗峰妙超禅師は、悟りの後20年間にわたり、五条大橋の下で、ホームレスの生活を送られました。妙心寺の開山の無相大師 関山慧玄禅師は、悟りの後20年にわたり、岐阜県の美濃加茂市にある伊深の里で農耕生活を送られました。
長年にわたる社会との関わりのもと、世間の多くの皆さまに仏法をお伝えすることができるのです。
帰りの地下鉄で、ピアスにタトウーの若い二人組が「オレも坊さんになりたいな。」と語りかけてきました。「君たちもこれから人生の経験を積みなさい。ヤンチャしていたほうが歳をとってから、語りに重みが出るんだよ。」と伝えました。
お寺の北側にある垣根の樹木が生い茂ってきました。
「柳は緑。花は紅。」という禅語があります。「自然の成り行きのありのままを見つめよう。」という解釈です。
ありのままを見つめても、放っておくことはできません。剪定作業をして、ご近所にご迷惑がかからないようにしております。
鐘楼の修復工事が始まりました。
一日がかりで、瓦や野地板など屋根の上のものを取り外すことからのスタートです。
すっぽりと消えた頂上から、棟札(むなふだ)が出てきました。
大正時代に建立したときの、棟梁と副棟梁のお名前が書かれていました。
棟上式の日時などの詳細は書かれていませんが、文字にならないところから、100年前の工事にかける熱い思いが伝わってきました。
禅の言葉に、「不立文字」というものがあります。文字による伝達を否定するわけではなく、文字の書かれた背景から先人の心を推し量るということです。
工事に立ち会って、今も昔も多くの皆さまにお世話になって大源寺が成り立っていることを感じました。
埼玉県まで行き、傾聴カウンセリングをされる曹洞宗の和尚さんのお話しをお聴きしてきました。
病院や介護施設や震災の被災地の避難所に出向かれて、悲しみの淵におられる方のカウンセリングの現場を知ることができました。
お相手の言い分を否定して、こちらの言い分の押し付けはいけないことです。
法華経というお経に登場する、常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)のように、ひたすらお相手の仏心を拝み続けることが大切であることを教えてくださいました。
東京の増上寺での、寺社フェス「向源」のスタッフとしてお手伝いさせていただきました。
私は、「お坊さんと話そうブース」を担当させていただきました。
5月5日の1日で、10人ほどのお客さまのお相手をさせていただきました。
皆さまから伝わってくることは、お坊さんに対する期待が高いのです。
人生の中で、一番必要なものは何かと尋ねられます。私は、「とらわれのない心」とお伝えしました。
現代では、瞑想をすることが流行っております。「マインドフルネス」という言葉に象徴されます。
瞑想をして、不思議な法力を得られるわけではありません。とらわれのない純粋な心になって、物事を見つめることができるようになるということです。
「きれいな心の中にこそ、人生を切り拓く智慧がある。」とお話しさせていただきました。
本堂の前にある松の木は、昭和の初期の頃から装いは変わらないようです。
鐘楼堂を修復するにあたり、ご近所のお宅に「工事中はご迷惑をおかけします。」とごあいさつに伺いました。
お隣の90歳の男性が、「私の子どもの頃から、大源寺の松の木は変わらないね。」とおっしゃいました。
住職よりもずっと長く、お寺を見ておられる方のお言葉には含蓄があります。
「松樹千年の翠。(しょうじゅ せんねんの みどり)」という禅語があります。常に変わりゆくこの世界において、青々とした松は、過去からの生き証人として、現代そして未来へと心を継承していくという解釈です。
お寺をお預かりしている責任を感じております。