18日間にわかる庭の整備工事が終わりました。お世話になった皆さまと記念撮影をしています。
駐車場の整備と樹木葬墓地の準備が整いました。
昔はこの付近で、掃き集めた落ち葉でたき火をしていたものです。31年前は、鮎をアルミに包んでたき火の中で温めて食べたものです。
庭を維持管理するにも持続性が求められます。多くの皆さまのお役に立ち、後世に伝えるものへとしたいところです。
皆さま、いつでも足をお運びいただき、心ゆくまでご鑑賞ください。
18日間にわかる庭の整備工事が終わりました。お世話になった皆さまと記念撮影をしています。
駐車場の整備と樹木葬墓地の準備が整いました。
昔はこの付近で、掃き集めた落ち葉でたき火をしていたものです。31年前は、鮎をアルミに包んでたき火の中で温めて食べたものです。
庭を維持管理するにも持続性が求められます。多くの皆さまのお役に立ち、後世に伝えるものへとしたいところです。
皆さま、いつでも足をお運びいただき、心ゆくまでご鑑賞ください。
広報ごうどに、今月10日に催されたガイドツアーの活動報告が載っていました。
私が幼い頃、地元の神戸町では「大源寺が臨済宗のお寺。」であることを知る人は少なかったようです。
「浄土真宗ではないお寺。」とか、「お爺さんが東大出で高専の先生をしていて、お母さんは小学校の先生をしていて、キミの家はすごいんだね。」と言われて、喜んでいたものです。
それまで布教活動をしていなかったことに気づき、大源寺だよりやブログ発信を始めたのは、まだ4年前のことです。
お寺の存在価値を発信して、地元の皆さまがご協力くださり、ありがたいと思いです。
鐘楼を照らすように、月が登ってきました。
32年前の今日、祖父の葬儀が終わってやれやれと思っていたところに、うちのお寺に停電が発生しました。
祖父が行なったタコ足配線のもと、多くのお客さまがおいでになり、電流がパンク状態であったのが原因でした。
一家の主が亡くなると、一気に家運が傾くものかと思いました。
32年の間に、先人や先輩方のご尽力のもと継承することができました。
月の光を見て、感謝と今後の覚悟を決めたところです。
円成寺を後にしてから、隣接する御首神社をお参りさせていただきました。
こちらの神社の由来は、武家政治を目指して関東で挙兵した平将門の首が京都に運ばれてから、故郷恋しくなって関東へ戻ろうとしたところ、途中にあるこの地で安住されたという歴史にあるようです。怨霊を鎮めるために、御首神社が建立されました。
鳥居をくぐると厳かな空気に包まれていました。願い事をするのではなく、今生きていることを感謝する空間であるようです
「メイント・モリ」と言うラテン語を耳にすることが多くなりました。「いつか死ぬことを忘れるな。」と言う解釈ですが、「人生は限りがあるのだから、有意義に生きよ。」というメッセージであるようです。
平将門公が、「あんたも中年になったのだから、人生のゴールを見据えて生きなさい。」とおっしゃっているようでした。
帰り際に、厄年表を見つけました。今年は後厄に当たるようで、注意が必要です。「メイント・モリ」と唱えながら、後にしました。
大垣市にある円成寺まで行きました。
臨済宗妙心寺派の管長を勤められた後藤瑞巌老師の祥月命日の法要でした。多くの和尚さまとお参りさせていただきました。
法要の後、斎坐(昼食)があり、こちらの土光隆一ご住職お手製のお膳をいただきました。タケノコご飯もあり、季節を感じていました。
門前には、「他人の心を問う前に、自分の心を見てごらん。」という掲示がありました。
ついつい他人のことが気になり、指摘してしまうことがあります。自分自身の心が穏やかで整ったものであるかと問うことを、土光住職は求めておられるようです。
私も自分自身の心を見て、自分勝手な行いをしていないか、自己満足に陥っていないか問い続けていこうと思いました。
この春から沖縄県に赴任した大学時代の同級生が、連休を利用してお寺まで足を運んでくれました。
ちんすこうやソーキそばなど沖縄の土産をお供え物にいただき、恐縮するばかりです。
本堂の濡れ縁の雑巾がけを、自ら進んでやってくださり感謝しております。
沖縄県に臨済宗のお寺があることを聞き、驚いています。遠く離れたところにも、仏縁が行き渡っているようです。
祖父が他界する1年前に、長年の教員生活の功績で「勲三等瑞宝章」を賜わりました。この時、町内会の皆さまがお祝いの品をお持ちくださり、床の間がふさがっていました。
その1年後にお葬式があり、「桑海先生は、昨年の今日「勲三等瑞宝章」を受け取られました。」とのアナウンスが虚しく響きました。
三十三回忌を終えて感じるのは、「お寺を維持するには、祖父のやり方を変えなければならない。」との思いです。」古い土台を替えないことには、同じ歴史の繰り返しになってしまいます。
「己こそ己のよるべ」で始まるお釈迦さまの言葉があります。今の臨済宗妙心寺派の管長さまが、よく引用されます。土台を強くするために、自分自身が強くあるべきと感じるところです。
祖父の三十三回忌に当たります。
大きな法要を行うことなく、ひっそりとお参りしております。
祖父は、「次から次へと進めて、困ったヤツだ。」と言うようですが、後列の祖母と曾祖母は、「お寺を守ってきた辛さは、あんたにはわからん。」と祖父を叱っているようです。隣の父は、黙って下を向いているようです。
たしなめながら、「今年は後厄に当たる私をお守りください。」とお願いして後にしました。
名古屋に政秀寺で、臨済録の講話を聴いてきました。
僧侶としての修行を積み重ねた上で、臨済録を読むと理解が深まるようです。
「自分自身というものを忘れて、環境に身を置くと見えてくるものがある。」というくだりがありました。
人は感情によって動くものです。感情から解き放れて見ると、雨の音や車の音が聞こえてくる。
街の喧騒も聞こえてくる。お寺から北に1キロくらいのところには、錦という繁華街があるようです。次は「環境を忘れて、自分自身に身を置く。」という繰り返しが、かたよらず、とらわれず、こだわらずに生きていくことができることを、臨済禅師は親切に解かれたようです。
祖師のお墓から本堂までの間に、広いスペースがあります。駐車場を確保して、庭を整えようと工事を進めております。
明後日に三十三回忌を迎える祖父が、どうするのかと尋ねてきます。「一つには、この庭を整えて、お参りされた皆さまの心地よいものにしたい。一つには、後世に遺して私の思いを伝えていきたい。一つには、お墓におられる皆さまを日差しから守っていきたい。」と答えておりました。
祖父は、「お前はいつまでもハラハラさせてくれる。それよりも早く安心させてくれよ。」と言っているようです。