大源寺だよりの最新号のゲラ刷りが出来上がってきました。
文字数が多いので、もう少し字数を減らしていこうと思います。
大源寺だよりを書き続けるのは、「お経も説教も下手ですから。」と言っているのですが、40年前に遡ります。
その年の4月に、祖父に叙勲があり、6月に今の大垣フォーラムホテルで祝賀会がありました。
8月に祖父が、肺がんで余命宣告をされて、10月に父が自死して、翌年の4月に祖父が亡くなるという波乱の一年でした。
「ボクが住職になれば、没落したウチも立て直せる。」と10歳で法衣を着て月参りや近所のお寺の施餓鬼や大般若に行きました。
「修行に行けば認めてもらえる。」と成人式を迎える前に僧堂に入門しましたが、異次元でした。動きが悪いとか物覚えが悪いのはわかっていましたが、檀家10軒の小さなお寺の子が頑張っても、厳しい将来があることを、私も家族も予想しませんでした。
またお寺を継ぐために修行をされる同輩もいましたが、「己事究明であって学校ではない。」と後に管長になられた老師が言われたものです。
自分が教わってきたことと、前に進んだお寺の世界とのギャップに悩みました。
「軍国少年として育ったが、敗戦で行く道を見失ったと河野太通老師がおっしゃったことが伝わってきます。
「お寺に住むために住職資格を取得するために修行に行った。」と住職になってからも言われて、兼職をしていると片手間と言われて、東京へ法話の勉強に行くと批判されるという、進む道を見失っていました。
12年前に、杉本 恭子先生の寺報教室を受講して、その1年後から年に2回続けて、毎日ブログを書いて皆さまにお伝えして、自分の進む道を交通整理しています。
終活のお話しで用いた西郷隆盛の「子孫のために美田を残さず。」というお話しがあります。
西郷隆盛は、2度の失脚を経て、新しい日本を作るために幕府を倒そうと決意しました。
徳川慶喜のように、高貴な家の出であって優秀で聡明であっても、主張がコロコロ変わったり、横柄な態度では民衆は離れていきます。
裕福ではなく軽んじられた者でも、日本を変えていった先人の強い意思を見習って、わかりやすくユーモアのあるストーリーをお伝えしていきたいと思います。
