お彼岸が近づいて、暖かくなりました。また花粉の影響でくしゃみが出ています。
樹木葬墓地の墓碑にご芳名が彫刻されました。多くのご縁に恵まれています。

永代供養墓にはお花が増えて、鐘楼前の梅の木もきれいに咲いています。

明日からは草取りが始まります。

お彼岸が近づいて、暖かくなりました。また花粉の影響でくしゃみが出ています。
樹木葬墓地の墓碑にご芳名が彫刻されました。多くのご縁に恵まれています。

永代供養墓にはお花が増えて、鐘楼前の梅の木もきれいに咲いています。

明日からは草取りが始まります。

母の診察に付き添って、大垣市民病院に来ています。
40年前に祖父が入院して、よく通ったものです。

祖父は皇居で叙勲を受けて、一族や末代までの誇りと喜んでいました。集落の全世帯からお祝いが届き、床の間は祝いの品で、床が抜けるほどでした。
宗門の花園高校の校長にも推挙されたのですが、肺がんで余命1年と宣告されて、祖母の猛反対で断念しました。
半年後、父の自死で意気消沈して、この病院で息を引き取りました。霊安室について行きました。
「源実朝のように、分不相応な栄誉があると災難がある。」と祖母は目立つ行動や言動を戒めていました。
そんな思い出が蘇ってきました。50年前からこちらでお世話になっています。祖母は私の運転がうまくないので、行きはバスで帰りはタクシーを使って通っていました。この病院は名古屋大学医学部卒業の医師が多いので、祖母はその点にもこだわりがあったようです。
母の診察に立ち会うと、私が「ああでもないこうでもない。」と口を挟むので、しばらくの間立ち会いを拒否されていたのですが、久しぶりに同席することになりました。祖母も私の立ち会いを嫌がっていました。
普段大人しい私がごちゃごちゃ口を挟むのも、40年前の嫌な思い出があるからです。亡くなった祖母や今ここにいる母も困った時に限って、私を頼ってきます。

パソコンに向かっていると、ドアホンが鳴り玄関に向かいました。
一昨年からご縁のできた高齢の男性がお越しになりました。本堂へご案内してお話しをしていました。

なんと94歳であられて、毎日農作業をしておられるようです。
長い人生を歩んで来られて、うちのような小さなお寺を頼って来られるのは思うところがあったのでしょう。
これまでは檀家さんや同じ集落の人が来て、年中行事の時は10人ほどのお坊さんをお招きする会員制クラブのようなお寺でした。
今では檀家さん以外の初縁のお宅の葬儀や法事をお引き受けして、違和感を持ち批判される方もおられるのですが、お寺や住職を頼って来られる方をお受けするのが慈悲行であると思います。

先日、樹木葬墓地に100区画目のご縁がありました。
10年以上かけてという当初の構想がありましたが、多くのご縁に恵まれて感謝しております。
今では葬儀社や石材店が宣伝をして、限定○○区画と言って、数ヶ月のうちに200区画契約していく手法があるそうです。
30年以上前、岐阜市の瑞龍寺僧堂の清田保南老師は、「ヘリコプターで一気に頂上へ向かうのと、ゆっくり歩いて登山していくのとどう違う。ゆっくり歩いて登っていくから達成感があるのだ。」とおっしゃっていました。
ゆっくりご縁ができてきたからお客さまの名前を覚えて、お客さまも噂でなくホームページや寺報でお寺を知ってくださり、葬儀や法事もご依頼してくださるのです。
これからもゆっくり歩いて登っていきたいです。

梅がきれいに咲く頃になって思い出して取り掛かるのが、確定申告です。
住職が確定申告とは意外に思われると思いますが、毎月の決まった日に役員報酬(給料)をいただきます。その際に、源泉所得税や社会保険料を引かれて、私の個人口座に振り込まれます。
年末に年末調整をして、この月に確定申告をします。いくらか戻ってきました。
5年前に、兼職していた役所を退職してお寺専業になった時は不安でした。お坊さんの先輩から、「お寺専業でやっていくには、お寺の年間収入が1,000万円が最低ラインだよ。」と途方もないことを聞いた時は冷や汗が出ました。
コロナ禍や私の思わぬアクシデントがあり、一時はどうなることかと思いましたが、いまこうしてお寺専業で過ごしていることに感謝しております。

隣りの檀家さんの祥月命日のお参りに行きました。当初は二十五回忌と言われたのですが、「岐阜県西濃地方では、二十五回忌を行うことはないですよ。」とお答えして、祥月命日のお参りとなりました。

「二十五回忌は、干支の二回り目となる24年目でわかりやすい節目であるから、関西の方で行われる。」と、大分県別府市のお寺の住職をされる修行僧の時の先輩にお聴きしたことがあります。
故人は保育園の園長をされて、老後は今のコンビニのような雑貨店を経営されていました。
24年の間にいろいろ変わりました。故人は「住職はお経がうまくなったな。」と思われたかもしれません。ボロボロで倒壊寸前の本堂が修復されて、安心しておられるかもしれません。ジャングルのように鬱蒼としていた庭がきれいになって喜んでおられるかもしれません。そんな思いを巡らせていました。

お昼からは、本堂で七日ごとにお参りがありました。15人お越しになり若者が多くてびっくりしました。子どもさんが経本を持っていって唱和しようとしていました。
昔は本堂にお客さんが入ることは滅多にありませんでした。24年の間にずいぶんと変わったものです。
あと住職をするとしても、長くて30年でしょう。その間にどう変わっていくのか楽しみになってきました。

忙しい一日でしたが、スケジュール通りに進んで安堵しています。
9時半から三七日のお経に行き、11時からお寺の本堂で法事があり、14時から蟹江町でお仏壇の閉眼法要、15時から名古屋の政秀寺で无名会の法話に行ってきました。

私のやり方を、ビジネスと揶揄されることが多いのですが、お寺を守って自分の思いで宗教活動をしていくのは、新しいご縁をつないでいかないことには続いていきません。
お参り先で、「和尚さんは、法衣の時も走っていますね。」と言われました。「この年齢でも走れるのはいいことです。」とお答えしていました。
无名会での岩村宗昂老師のお話しは、今日から十牛図でした。12年ほど前に河野太通老師から講話をお聴きしたことがあります。

牛を追い求めていく童子をわかりやすく説いたストーリーです。岩村老師のお話しは、中学時代の部活の顧問の先生のお話しを聴いているようで、奮起を促していく語り口でした。
私も歳をとり体力も低下しましたが、内面はいつまでも若いつもりでいます。十牛図の童子のように牛を探し求めていきたいです。

清荒神清澄寺をお参りしてから、タクシーで阪急の清荒神駅まで向かいました。
タクシーの車内で運転手さんに、「阪急ブレーブス」と言ったら何のことかわからないようで、「今のオリックスバッファローズのことです。」と言ったら、「ああ世界の盗塁王の福本豊さんがいたチームですね。」と伝わったようです。平成以降のお生まれの方にはわからないようです。
それだけ歳をとったようです。
清荒神駅に着いたら、時間があったので、近くのお店に入りました。揚げ物が多くあり、山陰のアジフライ定食をいただきました。おいしかったですね。遠くへやって来て、こだわりのある料理屋に出会えるのはうれしいことです。
孤独のグルメですね。元気で動けるうちに、旅先の料理屋さんに入っていきたいです。

兵庫県宝塚市まで四十九日の法要に来ました。
同じ臨済宗でも地域によって飾り方が違うものです。多様性を認める臨済宗の特徴ですね。

40分ほどお経を上げていました。皆さまが最初から最後までご唱和くださいました。
法要の後にお茶をいただいてお話しを伺っていると、お亡くなりになったお父さんは、日本大学の卒業で私の先輩であられたそうです。ご実家は三重県南伊勢町出身で、臨済宗妙心寺派のお寺にご縁があったようです。私は18年前に南伊勢町のお寺にお参りして、近くの民宿に泊まったことがありました。
ご親戚の方は、神戸市の祥福寺にお参りされたことがあるそうです。明日に祥福寺の岩村宗昂老師の講話を聴聞させていただくので、不思議なご縁に驚いていました。

岐阜県の西濃地方は、浄土真宗のお寺や門徒さんが圧倒的多数で、臨済宗と言っても伝わらないことが多くあります。エリアが変わるとこれほどお寺とのご縁に温度差があるものかと驚いていました。
その後、宝塚市の名刹の清荒神清澄寺まで送ってもらい、お参りさせていただきました。真言三宝宗のお寺でお寺の中に神社がありました。日本は神仏習合して多様性を認める文化であったのに、ヒステリックになって神仏分離して、お寺も神社も将来性が厳しいものになってしまいました。
そんな思いに浸りながら、阪急電車に乗って宝塚市を後にしまいました。

写真を撮り忘れたのですが、東京都文京区湯島の麟祥院にお参りした時、春日局の像がありました。
春日局は江戸幕府3代将軍の徳川家光の乳母で、今でいうベビーシッターで家庭教師のような役割であると思います。

これまでの歴史ドラマを観ていると、家光は決して優秀ではなかった。いまでいう広汎性発達障害であったのではと思います。
後継ぎの立場を降ろされると噂されていたので、春日局が徳川家康に直訴して、長子相続を守れと、将軍秀忠夫妻に厳命するシーンをテレビでよく見ました。
家光は20歳で将軍になると、弟の忠長を冷遇して自害に追い込んだようです。
私は動きが悪くて運動会でいつもビリで、よく似たところがありました。対象的に弟はよくできました。塾に行かなくても、公立高校、国立大学の大学院まで進み、親孝行と言われたものです。
それでも跡取り息子として育ち、20歳で住職になったのは長子相続の伝統が残っていたからです。私は弟にマウントを取っていて、嫌がってあまりお寺に帰ってくることもなく、サラリーマンの道を進みました。
春日局や家光の時代と照らし合わせて、弟には悪いことをしたなと思います。
今では、子ども2人連れて帰ってくると、「おじさんと遊びなさい。」と言って昼寝して、本堂で木魚のたたき方を教えていると嫌な顔をすると、都合よく相手を使うのは兄弟よく似ています。
