朝日新聞は、29年前に犬山市の瑞泉寺で雲水をしていた時、老師が読まれた新聞を一日遅れで購読したものです。
その記事に私の名前が掲載されていました。記者の方から取材のご依頼があった時、「うちの活動が記事のお役に立てるのですか。」とお尋ねしました。
それでも、わざわざ東京からお越しくださり、お話しをさせていただきました。
うちは、田舎の小さなお寺で、数軒の一族兼檀家さんと、地域の真宗のご門徒さんに支えられてきました。
40年前の父の葬儀の時は、親族や知らない遠縁の親戚や、知らないお坊さんさんが集まり、同級生や保護者が庭にまで並んで、オールスターでびっくり仰天しました。
何も知らない9歳の私は、我が家はこれだけ勢いがあるのかと思いましたが、お通夜のお菓子がないとか、御斎(おとき 昼食)の用意が少ないとか、ケチをつけて揚げ足を取るという、ねじ曲がった仲間意識で遺族はありがた迷惑でした。
最近の小規模な家族葬を全面的に賛成しているわけではありません。参列者に挨拶をして気ぜわしいまま葬儀を進めるよりは、少人数でお弔いをして見送り、宗教への信仰を深めていくのも選択肢なのです。
小さな葬儀でも粛々とお弔いをして、宗教者として教化していきたいと思い、インタビューでお答えしました。
平成バブルの頃から、葬儀が大規模になってきました。近所の認知症で引退された和尚さんは、「葬儀社の紹介で葬儀を受けたら、税務調査で痛い目に遭わせてきた税務署の職員だったよ。お返しをしたよ。」と述懐されていました。
お返しがどの程度かわかりませんが、鞘当てだったにせよ、傲慢であることには間違いありません。
そんな時代があったから、栄枯盛衰で小規模になってきたと思います。
状況に即して、寄り添い安心をもたらしていくのが宗教者の役割であると思います。
