臨済録を読もうとしたのは、20年前の妙心寺での高等布教講習会でのことです。現在布教師で禅を説かれる塚原和尚さまに、こちらの本をお借りして拝読したのが始まりです。
その後苦節を経て、うちの寺報に「一無位の真人」「無事是貴人」と記載しても、伝え手の力量もありますが、ほぼ伝わりません。
正法眼蔵や歎異抄のような体系性はさほどなく、破天荒な臨済禅師とお弟子さんとのやり取りを記録した、今でいうブログのようなものではと思います。臨済禅の世界がわかっていないと、パワハラやモラハラやカスハラの肯定と受け止められています。
ですから、精通した先生のもとで解読していかないと、暴力肯定のようなとんでもない理解をしてしまいます。
今から35年前のことです。中学校3年生の社会の時間で、日本国憲法の前文のわからない言葉を国語辞書で調べて、ノートに書き写すというご指示が先生からありました。
私は、「前文にある「享受」などの意味を辞書で引いて、どれほどの効果がありますか?」と拒否したものです。
定期試験でどれほどの点数を取っても、通知表で5はつきませんでした。その後、その先生は違法行為があって教職を追われたようで、法律の解釈という立場ではなかったようです。
文献や法典や一部だけを切り取って、自分の正義感の実現に結びつけていくのは危険です。やはりお師匠さんを探して読み解いていかないと、先人の思いを読み解くことは難しいと思います。
