樹木葬墓地で納骨式がありました。
薄曇りの天気のもと、雨が降りかけたところですが、無事に終わりました。
ご縁が少しずつ広がっていくので、住職は皆さまのお顔と名前を正確に覚えていきます。

樹木葬墓地で納骨式がありました。
薄曇りの天気のもと、雨が降りかけたところですが、無事に終わりました。
ご縁が少しずつ広がっていくので、住職は皆さまのお顔と名前を正確に覚えていきます。

午前中は岐阜市で法事、午後からはうちの本堂で法事と慌ただしく動いていました。
慌ただしいのですが、お経はゆっくりとお読みして、皆さまとご唱和しました。

思いつきで、母の車のパッソに乗って行ったら、その家もパッソが止まっていて、「不思議な巡り合わせですね。」と言っていました。
午後の法事は、私の同級生の奥さまのお父さんの十七回忌でした。平成21年は何があったかと考えていました。
いろんなことがあって、それから再構築して、16年が経つとは感慨深い思いがしました。

月刊住職を発行される興山舎から、「誰もが行きたくなるお寺33実践集」という本が届きました。
何と私のことが取り上げられており、びっくり仰天です。もちろん事前に通知がありました。
未来の住職塾の遠藤さんにインタビューを受けて、月刊住職に掲載されてこうして本にまで掲載されました。
私よりも活動されているご僧侶が、全国にいらっしゃいます。皆さまを存じ上げております。
刺激を得て、もっと進化していきたいと思います。
17年前は、妙心寺での高等布教講習会で夢破れ、「島崎藤村とか西条八十などの詩歌を使うからダメだよ。もう一度やり直しだよ。」と言われたものです。
何の主体性もなく、月に2回のお葬式の脇僧に使ってもらって、嫌われたら仕事はなくなります。心の薬を飲みながらで嫌な思いをしたものです。
「ぼくはね、君たちと同じで嫌われて指名されなくなると、仕事がなくなるよ。」と夜のお店でぼやいていたものです。
未来の住職塾へ行って、「自分のお寺をどのようなビジョンを持って経営していくか。」を学んで変わることができました。
「随所に主となる。」という臨済禅師のお言葉が次第にわかってきました。
いろんな墓地を造成するのも、お金儲けが目的ではなく、布教していくためなのです。そうすると、これまで批判していた和尚さんのお寺から、うちに移ってくることもありました。批判もあることでしょう。
その方は、「これまで、護持会費や本堂や庫裡の寄附もちゃんとしてきた。法事を欠かさず行い、施餓鬼も塔婆供養をお願いしてきた。これから先に、このやり方が続くことはないよ。これまで院号も付けてもらっていたけど、必要ないんだよ。」と言われて、その後にご夫婦の葬儀と納骨を行いました。
時代の変革期にあるから、こうした私のやり方が支持されたかもしれません。
私は20歳で住職になりましたが、40歳までは傀儡か奉公人であったものです。40歳を過ぎて主体性をもって布教できるようになりました。
蓮如上人は、40歳を過ぎてから本願寺の住職になられて、末代に続く教団を作られました。
私も少しでも模倣していって、後世に続くお寺にしていきたいと思います。

本堂の内陣に、歴代住職の頂相(ちんそう 肖像画)を掛けました。
25年前の私が住職になった晋山式以来、お蔵入りの状態でしたので、皆様のお目にかかるようにと思い、左側から掛けました。
私の前に11代の住職が在位して、位牌はあるのですが、5人の頂相しかありません。
右側の空いている所に、終活で私の頂相をと思い仏具屋河合 祐介 さんにお願いしたのですが、まだ早いようです。
この後、ホームページにも肖像画を掲載して、350年以上の歴史をお伝えしていきます。

暑い一日でした。
クーラーだけでは室温が下がらず、扇風機を使ってようやく涼しくなりました。
中学生2年生の時、頭でっかちでキョロキョロ動くので、扇風機とあだ名されていたものです。

28年前の雲水の時は、私と別府市の先輩が猛暑の中で草取りを指示されて、お気に入りの同期の雲水が瑞泉寺の本堂で施餓鬼の準備をしていたものです。
黙っていればいいのに、「あいつらこんな猛暑でよく脱走しないな。ハハハ。」という言葉を別府の先輩に告げ口する人がいたもので、先輩は激怒していたものです。
何も感じない私は、マイペースで続けていたものです。
本堂で準備をしていた同期が、熱中症なのか体調を崩して休んでいたものです。
「暑い時はこの暑さに従え。」と鈍感力で進むのがいいかもしれません。
そんな時にも法事のご依頼が2件ありました。手書きの手帳は忘れる恐れがあるので、スマホの予定表に入れて、家族内でクラウド共有しています。
そうすると、ウソはつけません。昔は、「〇〇和尚に呼ばれて仕方なく、飲みに行く。」と言って夜に外出していましたが、今はすべてお見通しです。
はからずも不妄語戒を守っています。

岐阜県仏教会の催しで、美濃加茂市伊深町にある正眼寺にお参りしました。
昨年に神戸町仏教会の会長を拝命してから、いろんなお寺へ出向きます。仏教会を代表してとなると、荷が重い気もしますが、少しでもお役に立てればと張り切って行動しています。

今回は、奈良時代に唐の長安の大明寺から鑑真和上に懇請して、日本にお招きした栄叡大師の毎年の法要があり、参列させていただきました。
行きは、一般道で渋滞もあり、2時間かかりました。玄関に入ると、懐かしい和尚さまがおられました。岐阜市の真福寺の坂本和尚さまで、こちらで長年修行された因縁もあり、案内をされていました。受付をしていると、岐阜県の江崎知事もいらっしゃいました。

30分ほどの法要は、浄土門は重誓偈、聖道門は般若心経をお読みしました。
控室で、本願寺派岐阜別院の輪番をされる羽川俊裕ご住職にご挨拶をしました。
その後は、栄叡大師の足跡のDVDと、妙心寺派の山川宗玄管長さまのお話をお聴きしました。山川管長さまは「現成受用」というお話をされました。抑揚はなく淡々と話されていてずっと聴き入っていました。
1200年以上経って、こうして多くの方に賞賛される姿に驚くばかりです。

名古屋市中区栄にある政秀寺の小倉ご住職が、遠路お越しくださいました。
私が河野太通老師を慕って、法話の会に参加させていただくようになって、早くも19年が経ちます。
月に一度のペースでお参りさせていただくようになりましたが、わざわざこのような片田舎にお越しいただくとは恐縮するばかりです。
河野太通老師の功績を讃えて、今後の法話の会のことを話していました。
床の間には、河野太通老師の墨蹟を掛けて、サボっていては明日はないと自らを奮い立たせています。

小屋を整理していたら、25年前の晋山式と落慶法要の式次第が出てきました。
当時は、24歳になる歳で、檀家さんから、「本堂を修復して儀式をしないといけないが、住職が指示してほしい。」と難儀な要望が出てきました。
前年に晋山式を行なった修行同期の和尚さんの式次第を模倣して、自分で作ってみました。そうして、司会をお願いした各務原市の少林寺の久司宗浩和尚さまのもとへ出向いて、監修を受けました。
この式次第を作ったので、無事に儀式は終了しました。小さなお寺で修行年数が短く、無理を言って寄付を集めた背景で、後からいろんなことを言われたものです。
身体にはどこの異常もありませんが、心の病に苛まれても、その後25年続いているのは、大きな儀式を行なったからだと思います。

午後になってから雨が上がり、お掃除日和となりました。
まずは、北門の道路沿いの伝道掲示板のポスターを貼り替えました。雨が降り続く季節もとらえ方によっては、潤いとなることを掲げました。

その後、庫裡や本堂の窓を開けて、新鮮な空気を入れて掃除を始めました。
床の間の掛け軸をどうしようかと考えていたら、明日は神戸市の祥福寺で河野太通老師のもとで修行された和尚さまがお越しになるので、河野太通老師の墨蹟を掛けました。

「懈怠の比丘、明日を期せず」とお読みするようです。私は28年前に僧堂に入門した時、動きが悪くてよく叱られました。住職になってからも、将来のビジョンを描けずに、右往左往したものです。
「道を求めて進んでいかないと、惰性になってしまう。」と修行僧を戒めた言葉であると思います。
「跡取り息子で、お爺さんの時と同じようにお寺を守っていけばいい。」という考えでは、先は暗いものになっていたと振り返っています。

お寺へ帰ると、本堂の濡れ縁で猫が寝そべっていました。
起こさないようにそっと近づいて、写真を撮っていました。

子どもの頃は、猫が芝生や砂利の上で糞尿をしていくので、迷惑がっていたものです。
心に余裕が出てきたからか、愛おしく思えてきました。
円覚寺の前の管長の足立大進老師は、犬か猫を慈しむようにと、「慈雲」と号されたとお聞きしたことがあります。
この世に縁ある万物に慈しむようにしていきたいです。
