名も知らない花です。玄関の間に活けられていて、しなやかに背筋を伸ばしています。
アガパンサスという名のようです。花言葉は「恋の訪れ」であるようです。独り身の主の境遇を知ってのことでしょうか。

名も知らない花です。玄関の間に活けられていて、しなやかに背筋を伸ばしています。
アガパンサスという名のようです。花言葉は「恋の訪れ」であるようです。独り身の主の境遇を知ってのことでしょうか。

本堂を掃除して空を見上げると、不思議な雲が迫ってくるようです。
ゴロゴロとカミナリの音が、遠くから聞こえてきます。

掲示板を貼り替えたところです。
「心をきれいにするのは、手を洗うことと同じように毎日の大切な習慣である。」と書かせていただきました。
隣には岐阜市歴史博物館から届いたポスターを貼りました。かぶき者と言われた信長の人生と、「心をきれいに」とは合わない気がします。
心をきれいにして、新たなものを創造していった信長の生き方を指し示しております。

雨が上がって、きれいな夕焼けにお寺が照らされていました。
「雨降って地固まる。」と明日から境内をきれいにします。

先日、7年ぶりに瑞泉僧堂の同窓会に参加してきました。
掛塔した時からお世話になった和尚さまに、「キミは叱られて泣くくらい弱かったね。住職で入ったお寺も裕福ではなかった。それでも這い上がるエネルギーがあるから、応援するんだよ。」というお言葉をいただきました。
器用ではないから、今なお試行錯誤しております。
器用ではなくても、まっすぐ生きようとする若い人がいると、応援したくなるのです。

「おじいさんの時と同じように、ちゃんとお経を読んで、庭をきれいにしていれば、檀家さんやご近所の皆さんはついてきてくださる。」と教わり、修行も半ばに住職になりましたが、それは檀家さんに依存して、自らは教化しようとしないマンネリにもつながりました。
自らの役割を考えて、進んで教化される和尚さまがおられます。そのような諸先輩方のまとめられたご意見をもとに、今後の僧侶のあり方を考える勉強会に参加するため、博報堂の大阪支社まで行ってきました。
これまでの儀礼をどう活かし、社会からの要望にどう応えて、今後どう展開して行くのかをグループを考えることができました。
これまでの一つ一つの取り組みは、間違いはなかったと思いますが、それをつなげる一本の道というものが貫通していなかったと感じております。
今後どう一本の道を切り開くのかを考えつつ、帰路についております。

21年前に掛塔(入門)した、犬山市の瑞泉僧堂の同窓会に出席してきました。
入門当時を思い出すように、旧交を温めておりました。
帰り道、近所の後輩和尚にお寺まで送ってもらいました。駐車場へ行く途中、住職塾でお世話になるご住職のお寺がありました。
お寺の世界は、本当に狭いものです。

京都の妙心寺の塔頭寺院の長慶院の落慶法要と、先代住職の二十三回忌の法要にお参りさせていただきました。
こちらのお寺のご住職とは歳が近いこともあり親しくさせていただいております。11年前の高等布教講習会のおり、「臥月眠雲」という禅語を用いて法話を作成するお題を出されて、長慶院に駆け込み、出典の虚堂録という語録をコピーさせていただいたことがあります。
10年以上経って、お参りするご縁をいただいたことに感謝しております。
隣の席には、高等布教講習会でご一緒した馬場和尚さまがおられて、再会を喜んでおりました。
浄土真宗のお若い尼僧さんがおられて、ごあいさつをしていたら、住職塾でお世話になる三重県津市の中川さんの娘さんでした。
11年前の法話の発表では、「臥月眠雲とはこだわりの心を持っていては、縁を引き寄せることはできません。」と原稿に目を落としたままでした。
こだわりをなくすことはできませんが、不思議な仏縁に包まれていることに感謝しております。

雨が上がって、蒸してきました。
アジサイを見て、一息ついております。

梅雨らしく雨が降るのは風情ですが、雨漏りがしては一大事です。
本堂の天井を点検したところ、異常がなくホッとしています。
幼い頃は、夜に本堂へ行くのは怖いものでした。悪いことをするとバチが当たると、夜中に本堂に連れ込まれたことものありました。
本堂とは、仏さまが悪いことをする人に罰を与えるのではなく、清らかな心に気づくところです。ホッと一息して部屋に戻るところです。
