本来無一物

お寺の庫裡の北側に裏庭があります。

30年ほど前は、鯉が泳ぐほど水が溢れていましたが、枯れ池となっています。

ドウダンツツジの花が咲いて、一面を照らしております。

手入れをしたわけでもないのですが、きれいに咲く姿を見て、六祖慧能禅師の偈頌(漢詩)を思い出しました。

「菩提もと樹なく     明鏡もまた台にあらず    本来無一物    いずれのところにか塵埃を惹かん」というものです。

「本来の菩提心というものは、樹木のように根の張ったものはない。きれいな鏡のような定型の心もない。この世のものは本来形のないものである。ゆえにチリを掃き取るような必要はない。」と解釈しております。

枯れ池という殺風景なところに、強くしなやかに咲く姿と、「本来無一物」と定型なものを否定された詩とを重ね合わせております。image

グリーフケア

僧侶として、お弔いにいくとき、お経をお読みするなど粛々と儀礼を行なうだけで、ご遺族の心のケアというものは、おざなりにされてしまいます。

大切な人を亡くした悲しみに寄り添い、心のケアをするというグリーフケアというものを、一昨年来学んでおります。

グリーフケアのことを、お寺の新聞に掲載したところ、夭折した同級生のお母さんがその記事を読んでくださり、感想をお寄せくださったこともありました。

この学びというものを、広めていくには多くの人の支えが必要となります。

愛知県春日井市のお寺まで行き、これからのグリーフケアを広めていく活動方針を話し合ってきました。

今後、宗派を超えた多くの和尚さんたちとグリーフケアを広めていき、本来の安心をもたらしていければと考えております。

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瓦を磨く。

お寺の屋根には、数え切れないほどの瓦が並べられています。

禅の問答には、瓦にちなんだ因縁話があります。

8世紀の中国の唐の時代に、南嶽懐譲という和尚さまがおられました。

南嶽禅師の多くのお弟子さんのなかに、馬祖道一という坐禅を熱心に行なう修行僧がいました。

南嶽禅師は、馬祖に問いかけます。「君は何のために坐禅をするのか。」

馬祖は、「仏になるためです。」と答えます。

南嶽禅師は、落ちていた瓦を持ってきて、磨き始めます。馬祖は師に何をしているのかと尋ねます。

南嶽禅師は、「瓦を磨いて鏡にしようと考えている。」と答えます。

馬祖は「鏡になどできません。」と答えます。

南嶽禅師は、「では聞く。坐禅をして仏になることができるのか。牛が引いている車が動かなくなったとき、牛を打つのか車を打つのか。」と尋ねます。馬祖は、やっと師の言葉の意味を察することができました。

 

「坐禅をしている。お経を読んでいる。庭掃除をしている。」など日頃の行ないを継続するうちに、ふっと見えてくるものがあります。何かを得ようとして行なうのではなく、無心に継続することこそが仏道であると説かれたのです。

 

何かの目標に向けて頑張っていても成果を上げることができないことはよくあります。継続するうちに、ふっと見えてくることがあります。無心の中から仏道を積み重ねることを、南嶽懐譲禅師は説かれたのです。

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お釈迦さまのお誕生日

4月8日はお釈迦さまのお誕生日です。

クリスマスを祝っても、お釈迦さまのお誕生日をお祝いすることのないもどかしさを、ずっと感じでおりました。

宗派を超えたお坊さんの有志で、名古屋市の繁華街の栄で、お釈迦さまのお誕生日をお祝いして、お花をお送りしようという街宣運動をしました。

仏さまの心を、街行く人にお伝えする種まきができたと考えております。

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生け花

お寺の玄関の間に、生け花が置かれたところです。

新緑に囲まれて、薫風が漂う初夏を思わせてくれます。

「夏草や君わけゆけば風薫る。」とは正岡子規の俳句です。

病床にいて、外に出ることのなかった子規が、ガラス越しに薫風を感じたことを思い浮かべます。

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チューリップ

お寺の庭のチューリップが咲いております。

チューリップは、トルコが原産地のようですが、16世紀にヨーロッパに伝えられ、オランダで品種改良されて現在の型になったようです。

花言葉は、「博愛 思いやり」であるようです。仏教でいう慈悲にあたるのでしょうか。

お寺の庭でチューリップが咲くようになったのは、最近のことです。住職に慈悲の実践を促しております。

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ドウダンツツジ

本堂前のドウダンツツジの花が、きれいに咲いております。桜のような華やかさはありませんが、静かに春を告げております。

湿った土壌を好んで、肥料を与えなくてもよく育ちます。このような姿を見て、「山川草木悉有仏性 (さんせんそうもく しっつぶっしょう)」という言葉を思い出しました。山や川や草や木など、あらゆる自然界には仏さまの心が宿っているという教えです。

どんな逆境においても、生き抜くようにと諭してくれるようです。

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永遠なるものを求めて

「永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩という。」とは、奈良の薬師寺の管主であられた故高田好胤師のお言葉です。

修行道場での生活を終えて、お寺へ戻り「和尚さん」と持ち上げられるといい気になってしまいます。住職という肩書きに向けて、頭を下げておられることに気づかなかったものです。

住職になって、檀家さんからのクレームを聴いて、自分を磨きお寺が興隆するように励むことも修行と捉えております。

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水月道場に坐して、空華の万行を修す。

禅僧の修行は、雑巾がけをすることから始まります。

修行僧の頃は、床の上を早くきれいにしようとしても、やり残しが多かったものです。

本堂内の濡れ縁の上の雑巾がけをしております。

汚れ具合を見ながら、雨漏りの可能性がないかを確認しております。

そんな折に、本堂の柱にかかった聯(れん  対句を書いた一対の木札)の禅語が目に入ってきました。

「水月道場に坐して、空華の万行を修す。」とお読みします。

「水や月のようなとらわれのないところで坐禅をして、心が鏡のようにあらゆるものをきれいに映し出す。」と解釈しております。

面倒なことに思える雑巾がけを実践していると、鏡に映し出すように思わぬことを発見することができるのです。

 

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