鶯は春暖に逢うて

日中は20度を超える気温にまで上昇してきました。

お寺の庭では、鶯(ウグイス)が鳴いております。鶯の声につられて、庭に出ていく住職です。

「鶯は春暖に逢うて歌声滑らかに、人は時平に遇うて笑瞼開く。」という禅語があります。

寒い毎日であった1月前とは異なり、鶯の鳴き声が人の心を和ませてくれます。

ただ、花粉が蔓延しております。笑って瞼を開くとはいかないのが辛いところですね。

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水離れて元海に入り

朝の長良川の風景を撮ってみました。

岐阜県の西南に位置する西濃地方は、木曽川 長良川 揖斐川と3つの川に囲まれる平野地帯で、水害に悩まされてきました。

生活を潤すこともあり おびやかすこともある水もやがては、海に帰っていきます。

 

お葬式のときにお唱えする引導のなかで、「水流れて元海に入り、月落ちて天を離れず。」という禅語を引用することがあります。「この世での人の命が絶えたとしても、海に入る水や、見えなくなる月のように、消滅することなく、大自然の命となって生き続ける。」ということです。

 

日頃の何気ない風景にも、大いなる命が宿るものです。

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三重の塔

 

大源寺の庫裏には、奈良の薬師寺の東塔の木製ミニチュアがあります。

六重の塔のように見えますが、小さな屋根があるためで、実は三重の塔なのです。

31年前の10月24日に、住職の祖父が土産に買ってきたのですが、同じ日に住職の父が亡くなったこともあり、因縁浅からぬものです。

いま奈良の薬師寺では、東塔を写経の奉納による勧進のもと、修復されているようです。大源寺の先代住職が、「薬師寺を見習って、勧進をして鐘楼を修復せよ。」と住職に指示しているかのようです。

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分別をなくすこと。

「分別をわきまえる。」とは、「自分自身の立場をわきまえて、社会のルールを守る。モラルを保つ。」と意味で用いられます。

仏教の禅の教えでは、「分別をなくせ。」という教えがあります。突拍子もない表現です。

禅で否定される「分別」とは、物事を判断するにあたっての「固定されたモノの尺度」です。例えば、平成の始めの頃に「三高」というモノの尺度で、人の価値を評価されることがありました。「「高身長、高学歴、高収入。」の三つが整えば、その方の未来は明るい。」という根拠の乏しい常識が通用していたものです。

世間の評価がどれほど正しいのか客観視するために、分別をなくすことが求められるのです。

 

禅の修行では、世間での評価というものをリセットすることから始めます。遮光レンズを外すためにリセットを求められるのです。そうして、古くからの仏さまの教えや禅の教えを、吸い込むように身につけていきます。

一旦リセットした価値観を否定せずに、客観視することが、お釈迦さまの説かれた「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静   (この世のものはすべて移り変わる。いかなるものも、とらわれるものはない。とらわれの心をなくしたところに、安らぎの境地がある。」という境地へとつながるのです。

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入母屋破風桟瓦葺き屋根

先日、東京へ行き、鐘楼修復にあたり、インターネット上で勧進を求めることの相談にお伺いしました。

鐘楼修復を呼びかけるには、その文化財的な価値を示していく必要があることをご指導いただきました。

建築のことをあまり知らない住職は、設計士さんからいただいた資料をもとに、「入母屋破風桟瓦葺き屋根」という建築形式であることを知りました。上部の切妻の部分に破風を差し込んで、下部の四面に庇や屋根を取り付けた建築形式をいうようです。お城の天守閣にこういう建築形式が用いられたようです。

 

大正8年の頃は、いま以上に経済的に苦しい状況であったのですが、100年近く保つことができたのは、妥協を許さない先人の心意気があったことを感じることができます。

 

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法縁の継承

宗派を超えたお坊さんの集いである「未来の住職塾」のフォーラムと卒業生の集いに参加させていただきました。

宗派を超えた課題として浮かびあがってきたことが、「法縁の継承」すなわち仏教の教えやそのもとに形成されてきたつながりを、未来に向けても絶やすことなく継承していくことです。全国のお坊さんとの交流を深めて、大源寺の現状に見合った取り組みをしていこうと、思いを新たにしました。

 

その後、住職塾のメンバーでイスラム教のモスクへ拝観に行きました。西北西のメッカのほうへ向かって礼拝されるお姿を拝見して、7世紀に成立したコーランの教えを、未来へ向けて継承していこうとする強い信念が伝わってきました。

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平常心是道

華道とは、全体の調和と時節との一体感が、総合的を美しさを醸し出すものであると考えております。

お寺というものも、住職の人間性や宗教的な指導者としての発信力が問われることが多いのですが、土台なるのは、お寺に住む家族の一体感や、お寺を支える檀家さんや信者さんとの意思の疎通が大切になってきます。

宗派という枠にとらわれないお寺や僧侶との連帯感も大切です。そのトータルなバランスを維持することは、日頃からの良好な人間関係を築いていくことが欠かせないのです。華道のような調和を図るには、「平常心是道(びょうじょうしんこれどう」と、日頃の平常心の維持が大切となります。

 

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馬酔木

暖かくなってきましたが、これからしばらくの間は、花粉症に悩む毎日になるのではないでしょうか。

季節の変わり目です。お身体にお気をつけください。

お寺の鐘楼の下には、あせびという植物が色づいております。

あせびは漢字に当てはめると、「馬酔木」と書きます。馬が酔うほどに、一面にきれいな花が咲いているということでしょうか。

万葉集に、「我が背子に 我が恋ふらくは  奥山の  馬酔木の花の  今盛りなり。」という歌があります。密かに秘める恋心を詠っているようです。それほどに人心を惑わす馬酔木の花なのです。

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仏物己用の罪

名古屋の永平寺別院で、愛知学院大学の菅原研州先生による、道元禅師の「正法眼蔵随聞記」の講話を聴かせていただきました。

道元禅師は、中国へ留学される前に、京都の建仁寺で修行をされたようです。

日本に最初に臨済宗の教えを伝えた栄西禅師のエピソードが書かれています。

建仁寺に、生活に困窮した人が施しを求めにやってきます。そのとき、栄西禅師は、薬師如来の仏像の光背を作るためにとっておいた銅を、困窮者に渡してしまいます。

弟子たちは、栄西に向かって「仏物己用の罪(仏さまの物を着服して自分のものにした。)」となじります。

栄西は、「お前たちの言うことはもっともだ。しかし、貧しい人を助けて地獄へ行くのは本望である。」と説かれました。

うちのお寺に当てはめて見ると、大きな本堂があり、立派な鐘楼がありますが、見栄ばかり先行して、世間のため社会のためという考えが欠如してしまうことが多いのです。

栄西禅師のお心は、建物や仏像そのものにとらわれるのではなく、衆生への救済こそが大切であることを説かれたのではと考えております。

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宗教とは認めあうもの。

大垣駅の前を通ると、キリスト教系の教団が、伝道のパンフレットを配布しておられます。

寒いなか、ずっと立っておられて、強い信念を感じております。一枚いただいて読ませていただきました。一読しただけではわかりませんが、人類救済という使命を感じることができました。

「大源寺だより」をお渡ししてきました。どのようなご意見があるのか、楽しみにしております。

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